逝く者、いくもの

23章

 箱館に雨が降る。
 ぬかるんだ道を傘もささずに小五郎は一人歩いていた。
『高龍寺分院の状況を見てきてほしいんだ。包帯や薬の残量とかこまめにお願いしたい』
 高松の指示で分院の高龍寺の状況を調べにいく途中である。といっても箱館病院より坂をまっすぐに下れば高龍寺があり、わずかな距離だった。箱館病院では多くの負傷兵を受け入れる規模がなく、近くの高龍寺の一部を借り受け、分院として設置したという過程がある。
 高松が小五郎を外に出す理由は気分転換の意味合いが多いようだ。病院で負傷兵の手当てや薬の調合などを任されているが、藩医の倅であるだけで「医者」としての教育を受けたことがない小五郎である。負傷兵や病人と向かい合う生活ばかりをしていては精神上うっ屈とした状況になると高松はいう。
「君は未だ私の患者だ。適度な運動が必要なことに変わりない」
 軽かったとはいえ労咳を発症した小五郎だ。労咳は「不治の病」と言われ、この時代には確たる治療法も良薬もない。そのため死亡率は八割を超え、完治する人間は稀であった。小五郎の場合は早期に発見しこの箱館病院で最先端の医療知識のある高松のもと、「療養」を徹底してきたため回復にいたった。
 労咳となったものはまず隔離を徹底し、栄養のあるものを摂取し続ける。これ以外に治癒の確たる方法は何もない。箱館病院の一室に隔離療養となった小五郎のもとに、土方や中島が生卵や高値の高麗人参を運び、しぶる小五郎に無理やり飲ませ続けた。

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 労咳患者としては最適の環境だったと言える。
 人から人に感染すると言われる労咳だが、その感染の過程も知られてはいない。巷では元気なものが多くかかることから「恋の病」などの流言があるほどで、真偽ははなはだ不明である。
 パリ万国博覧会の随行としてフランスに渡り、最先端の医療を目の当たりにした高松だが、当時の西洋と言えども労咳の治療方法は確立されていなかった。労咳(結核)の感染理由が判明するのは明治の中旬。予防の抗生物質が登場するのは第二次世界大戦の最中と言える。昭和の前期まで労咳はまさに「不治の病」であった。
 回復したとは言え、労咳を宿している身としては、未だに病が身の内にあり人に感染しないか小五郎は気になっていた。病院で手伝いを始めたころに高松にその件を尋ねたことがある。
『それは今のところは大丈夫だ』
 と高松は請け負った。異国での事例において回復をした労咳患者は、咳を発しなくなれば周りに移すことはない。後は体力をつけ免疫を高めることが一番だという。だが油断は禁物た。労咳はぶり返すのは回復して一年以内が多いのだという。体に極度な負担をかけ、また空気が澄んでいない場所に居続けるとぶり返す確率が高い。三年、ぶり返さなければまず安心ということだ。
(一生……労咳と付き合わねばならない)
 今となっては高松が小五郎が前線に出るのを反対したのは、ぶり返しを懸念していたことが分かる。
 思えば幼なじみの高杉も労咳となり肺を痛めた。高熱と咳に苛まれ、病状の悪化とともに血を吐き昏倒する日日も増えていく。療養の中、多くの見舞い客が高杉を訪ねたが、不思議と労咳を発症するものはなかった。

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 それを高松に話した際に、高松はわずかに首を傾げ、
『労咳には潜伏期間があると言われているんだ。ついでに菌が体に入ろうと全員が発症する訳じゃない。多くは発症せずに終わるって説もある』
 家族内で全員が感染する時もある。感染しない時もある。移るか移らないか。それは五分と五分。免疫が高いか、後は運によるところが多いとしか医者と言えども言うことはできない。
 高杉が病を発症したころに、いっそ自分に移れば良いと思った。その身の病をわずかたりとも引きとれれば良いと本気で思ったものだ。
(晋作は労咳で逝ったというのに)
 なぜに自分は回復し、今、こうして生きているのか。
 もしも高杉より労咳がうつっていたならば、その病で逝ければこんなに幸せなことはなかっただろう。回復した今でも時折、夢想する。だが、この頃はそんな誘惑もなりを潜めた。
 小五郎が志願して木古内に赴いている際に、箱館病院の一室で療養を続けていた新選組隊士の玉置良三が逝った。年若く十六を数えたばかりだった。
 土方や大野などの新選組の仲間は二股口に布陣していた。その頃の彼を見舞うのは、弁天岬台場に布陣する相馬主計や総裁附きの小姓田村銀之助くらいだった。
『土方先生……土方……せんせい…』
 意識も定かならぬ中で玉置は手を差し伸べて、ひたすらに土方を求めたという。
 高松は相馬に「次に血を吐いたならば最期」と通告していた。その中でも玉置は最期まで死に足掻いた。生きることを望み、土方とともに戦えるその時を諦めずに病と闘った。

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 意識がある時には、はにかむような笑顔で、
『土方先生といっしょに闘うためだから病になどに負けません』
 と口にしていたと言う。
 最期は苦しむことはなく、安らかな表情でスッと息を引き取った年若い隊士は、どれほどに生きたかっただろう。
 労咳の激痛が体全身を襲う中でさえ、死ではなく生を掴もうと闘った彼に、労咳を克服して現在を生きる自分が「死」を夢想していてははなむけにもなるまいと小五郎は思った。
 ……お願いだから、死なないで。
 泣きそうな声で叫んだ後輩の言葉が、今も胸に留まっている。
 この身から「死」が離れた時があるとすれば、間違いなくあの言葉が体に浸透した瞬間だといえた。
 ……死なないで。
 後輩の一途なまでの必死さが紡いだ願いとも祈りとも言える言葉は、ただひと言で人を生に留める力があることを、あの時にはじめて知った。
 小五郎はかつて死地に自らかけていった仲間たちになにも言葉をかけられなかった。あの時「死なないで」と叫べば何かが変わっていただろうか。病み衰えても前線に立とうとする幼なじみにこの言葉を口にすれば、結果は同じであろうとも自分の心情はもしかすると違っていたのかもしれない。
 雨がしとしとと降る。
 箱館病院を出る際は空は曇天であったが、まだ雨は落ちてはいなかった。
『小五郎くん。傘を持って行きなさい』
 事務長の小野権之丞にそう声をかけられたが、近い場所なので小五郎は傘を持たずに出てきてしまった。

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 卯月の終わりを告げるこの日の雨は妙に冷たい。もう目の前が高龍寺だ。小五郎は急がず歩を進める。うっすらと全身が濡れ始めていたが、小五郎は気にしない。
 水たまりを弾き、ピシャリと袴に泥水がかかった。これはいただけないなと苦笑したときに、ふいに耳に何かの音が伝った。
 小五郎の足が止まる。
 雨音に混ざり遠くから聞こえるこの音は、あぁ鐘の音だ。
 おそらく露西亜領事館内にある教会が鐘を鳴らしているのだろう。教会の楼閣に五つの鐘が設置され、毎日決まった時間に打ち鳴らされている。今のは徹夜祷の始まりを意味する鐘だろうか。
 箱館の中心街には各国の領事館が立ち並んでいる。かのペリー艦隊来航の一年後に当時の徳川幕府と米国との間にむすばれた日米和親条約に、下田・箱館の港の開港という条項があった。もとより箱館は蝦夷三大港として栄え、それなりに整備はされていたが、 一大港町として町が区画ごとに整備されたのは、かの条約の恩恵とも言われている。またペリーは条約の後にさっそく箱館を訪れ測量にとりかかった。この折に西洋音楽が箱館市民に披露され、今まで耳にしたことがない音楽の調べに現地民は皆、茫然とするほどに驚き、聴き入ったと言われる。ペリーは箱館の街に足を踏み入れ沖ノ口近くの市場で日本土産を購入したらしい。
 開国以来、日本中に嵐のように巻き起こった「攘夷」の風も、この箱館では無風に等しく、開港以来、どこか日本離れした異国情緒にあふれた街として箱館は発展していった。
『教会の鐘にはレクイエムという意味があるそうです。祈りとも鎮魂歌とも言います』
 先月、箱館病院を訪ねてきた男がそんなことを教えてくれた。
 沢辺琢磨という男で、年のころは三十前半くらいだろうか。

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 一年前までは高龍寺の坂の上に位置する神明社の宮司であったらしいが、耶蘇教へ回教し、日本ハリストス正教会の最初の信者になった男である。宮司として箱館市民に慕われていた男だったが、耶蘇教の回心により人心は離れ、また新政府が耶蘇教を弾圧するという噂が聞こえてきたこともあり一端は箱館を脱出し、東国諸国で布教をおこなうが捕縛。釈放後に榎本艦隊上陸の噂を聞きつけ、再び箱館に戻ってきたらしい。
 病院に治療に通っている酒屋の主人は沢辺の顔を見て「あの男は胡散臭い」と嫌な顔をした。
 沢辺は安政年間に箱館に流れるようにして現れたらしい。剣術の腕に優れ、ある時は宿屋の強盗をその腕で捕縛した。きさくな人柄でもあることからあっという間に箱館の人々の中に解け込み、剣術道場を開いて生計を立て始めた。街の人々とも付き合うようになり、この折に神明社の宮司がこの男を見込んで婿養子にという話になり、沢辺琢磨と名乗るようになったという。
『沢辺のご内儀は、先代の神明社の娘でな。夫が耶蘇などに回教したために棲みなれた社を追い出され、相当に精神的にまいったらしい。一時は自宅に火をつけて大変だったべ』
 そんな妻子を置いて、一年前に忽然と沢辺は消えた。新政府の弾圧を恐れたためと街の人は思い、残された妻子を憐れんだ。馬鹿な男を亭主にもったものだと口口に言ったものだ。
 その沢辺がどういう訳か箱館に戻ってきた。住民は良い顔をしないのも頷ける。異国と共存する街のため耶蘇教を黙認はしているが、住人はできるならば耶蘇とは関わりあいたくないというのが本音らしい。街には浄玄寺・称名寺・実行寺など大規模な寺が立ち並び、各宗派の檀家も多い。箱館病院に面した通りも寺町通りと言われているほどで、数多くの寺が立ち並ぶ。

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 沢辺は江戸で剣術を学んでいる際に数多くの仙台藩士と顔なじみになり、箱館病院に馴染みのものが入院していると聞いて見舞いにきたという。だがそれは建前であり仏蘭西に滞在し医学を学んだ高松に興味があったようだ。
 あの日、小五郎が沢辺を見たのは帰り際の玄関先でのことだ。箒で周囲を掃いている際に沢辺が病院内より出てきた。  小五郎は軽く会釈する。それを見て人懐こい顔で沢辺はお辞儀を返した。第一印象と言えば長身で、温和な表情をしているが、その目の奥底に殺伐とした光が見えた気がして、あぁこの男は武士だなと小五郎は感じる。実際、人懐こい色合いが顔より消えると、そこに残ったのは朴訥として厳しい男の横顔だった。
 視線をゆっくりとそらし、掃除を再開させるのと同時に、あの日は鐘が鳴った。
 教会の鐘については箱館に到着して以来、時報代わりとして認識している程度だった。かまわずに掃除を続けたが、その男が鐘の鳴る教会の方に体を向け目を閉じているのが見えた。
 静かな……静かすぎる横顔。静寂なその場を柔らかく覆うかのように聞こえる厳かな鐘の音。
 小五郎は箒を片手にその場にたたずんだ。今、一切の音を立ててはならないような気がして、黙ってその男の横顔を見つめた。
『知っていますか』
 男は目を閉ざしたままで、小さく問いかけてきた。
『教会の鐘にはレクイエムという意味があるそうです。祈りとも鎮魂歌とも言います』
 その一瞬。男は哀しげな顔をした。
『私には多くの仲間たちがいました。国を捨てる際にその仲間たちも同じく捨ててきましたが、

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風の便りで多くの仲間が天に召されたことを知り、鐘が鳴るとこうして祈るようになりました』
『……』
『せめて天国でかの人たちが安らかたらんことを。祈ることや悼むことで、私は彼らと繋がっていたのかもしれません』
『……なぜ』
 小五郎は小さく呟く。
 そんなことを自分に聞かせるのか。
 鐘の音が止まると同時に目を開けた男は、穏やかさを表情に刻み、優しい声でいった。
『あなたも多くのものを失った目をしております』
 小五郎は答えずに、静かな男の目を見ていた。
『耶蘇教にはあなたの問いにこたえるものがあるかもしれません。悲しみにも……。その心になにかしら救いをお求めならば、一度教会にお越しください』
 ふと小五郎は違和感を感じる。丁寧な言葉遣いの標準語であるが話し方のどこかに、と少し考えて「あぁ」と気付いた。彼の語尾には南国育ち特有のなまりがあった。彼も小五郎の顔の動きに気づいたのか。わずかに微苦笑を浮かべて、
『ほんなら』
 と会釈をして去って行った。
 あえてこの言葉を使ったのだろう。それにしても懐かしい言葉を聞いたものだ。
 小五郎の脳裏に今は鬼籍に入った友人の顔が浮かび、わずかに胸が痛んだ。別れる際「ほんなら」と告げ、優しい笑顔をした友人とあの男はどことなく面影が似通っている気がしたが気のせいだろうか。

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 あの頃……一月前の小五郎にとっての救いはただ「死ぬ」ことのみだった。自暴自棄と嗤われようとも構わない。闘って死すことのみが未来であった。
 では、今はどうなのか。
 雨音に混ざる鐘の音がどこか哀しく響く。鎮魂歌という表現も的を射ているような気がした。
 今は目を閉じて厳かな気分となり祈りを紡ぎたくなる。
『その心になにかしら救いをお求めならば、一度教会にお越しください』
 あの折の沢辺の言葉が耳によぎった。
 救いは「死」のみであった自分には届かない言葉であったが、今の自分には違った意味で響いていた。
 小五郎は宗教に救いを求めることはない。神仏を蔑にするつもりはさらさらないが、困った時の神頼みすらすることはない男である。神仏とは決して「救い」をもたらすものではない。それが信条ともいえた。 だが耶蘇教における「救い」とはなにを意味するのか。小五郎の道徳や常識とはかけ離れた思考があるかもしれない。それを聞いてみたいという思いが胸によぎる。
(人とは……)
 なんと滑稽で面白いものであろうか。
 死神が離れた時から頭は生に繋がる事項を追うことに切り替わった。
 いつしか教会の鐘も鳴り止む。
 小五郎は歩を進め、高龍寺の門を潜った。

 高龍寺には木古内戦で傷を負った顔なじみも数名おり、少しばかり話し込んでいるうちに周囲は薄暗くなっていた。

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 負傷した兵士は皆、現在の戦の状況が気になってかそわそわしている。木古内が突破され、現在は両軍は矢不来で激突していることは小五郎の耳にも入っていた。矢不来・有川と抜かれた場合、敵は七重浜に突入するだろう。
 七重浜は五稜郭より距離にして二里ほど。ここを突破されることはすなわち五稜郭はすぐ目前となることを意味する。
 負傷兵と言えども歴戦の勇者ばかりだ。特に高龍寺には会津藩士が数多く入院している。血気盛んであるのと同時に、征討軍に対する憎悪の点でも他の隊を圧倒するほど強い。
 箱館病院は高松院長の指示のもとすべての患者に非武装を徹底している。高龍寺分院にもその考えを伝えてあるが、ここの患者は刀を手から離しはしない。刀は武士の魂という言葉があるが、会津武士はまさにその言葉を態度で表している。
「刀を捨てろと言っているわけではありません。一時だけ長持ちにしまいましょう」
 小五郎の言葉に壮年の男はまるで子供のように首を横に振った。激昂する年若い者もいる。刀を手放すくらいならば「殺せ」と叫ぶものもいた。高龍寺に赴任している医者はため息とともに、小五郎にゆっくりと首を振る。どうにもならないとその目は明確に告げていた。
 負傷兵の心も分からなくはない。同じように高松が掲げる理念も痛いほど分かる。
(……どうすれば良いのか)
 無理やりに武器に取りあげることはできるが、そうすると必ず反発があり、義憤で死を厭わない人間も現れる。自主的に武器を手放させなければ意味がないのだ。何度も高松が出向き説得を繰り返しているが、未だに武器を手放す負傷兵はいない。

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(いずれ刀がいらない時代がくる)
 その時、日本中の武士はこの高龍寺の負傷兵のように刀を「武士の魂」といって手放すのを拒むのだろうか。
「ご自愛ください」
 多くの負傷兵に小五郎はそう声をかけた。
 木古内で小五郎に手当てを受けた若い兵士は、にこりと笑って小五郎を見る。会津藩出身の遊撃隊隊士で、小五郎が唄う子守唄に涙を流して聞きいっていた。
「医者さんも無鉄砲はしないでくださいね」
 それには軽く笑って小五郎は高龍寺をあとにした。
 現在は薬や包帯といった医療用具はおおまかには足りているが、この後、矢不来での負傷兵が続々と搬送されてくると予想されるので、今から数多く備品しておきたいと医者より申し出があった。 その言葉のままに高松に伝えると答えたが、箱館病院には予備はなく、ましてや包帯は残りが少ない。現在は戦時中である。医療道具の備品は有り余ろうとも、すぐに手薄となる。
 雨はやんでいた。
 道のあちらこちらに水たまりができており、それを避けながら小五郎は坂を登る。
 海沿いの街は坂が多いが、この箱館にも実に坂は多い。それも急斜面であり、老人が腰を曲げて登らねばならないということからチャチャという名がついた坂もあるほどだ。ちなみにチャチャとはアイヌ語で「おじいさん」という意味があるという。
「清水の坂がとてもなだらかに見えるよ」
 思いがつい言葉になり愚痴めいてしまって、小五郎は苦笑しつつ坂を登る。
 顔をあげた先には神明社の鳥居が見えた。

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 由緒正しい神社の宮司となった男が、どのような心境で耶蘇教に回教したのか。小五郎は沢辺琢磨という男を少し考え始めたが、ほんの数分で箱館病院に辿りついてしまった。
 苦笑いをして病院内に入ると、そこは小五郎が出かける前とは打って変わり、騒然としていた。
「小五郎さん」
 調役の勝股百介が顔を真っ青にして小五郎の手を引いた。
「矢不来の負傷兵が運ばれてきました。今はこちらに搬送しましたが、これから重傷兵以外は分院に移すことにしました。分院に移すのは会津の遊撃隊が中心です」
 勝股はこれから負傷兵と共に高龍寺に向かうという。
 四月二十八日、矢不来では戦が始まっていた。
 小五郎の体に緊張が走ったが、勝股に高龍寺の医薬品についての状況は告げ、いささか早足で大部屋に向かう。
 そこは負傷兵の呻き声に覆われ、血の臭いが充満していた。
「小五郎くん」
 高松の鋭い一声に小五郎は「はい」と答える。
「すぐに化膿止めの薬を調合してほしい。それから……」
 高松が脈を見ている負傷兵が苦しげに呻き、目を大きく開け、高松の白衣の袖を握り締めた。
「……っ」
 全身包帯だらけのその青年は目に自らの命の灯をすべて込めたかのように、壮絶に意思の力を込めて高松を見た。
「……もういけない。これ以上はたんなる……さつりく」
 息も切れ切れの中、とぎれとぎれの言葉をどうにか声として、荒い息の中、その青年は高松の袖を掴み続ける。
「諏訪さん。今は傷の手当てが先だよ」

逝く者、いくもの 23-12

 青年は必死に呼吸を紡いで高松を凝視する。
「……」
 もう声が紡げない。その唇の動きを「わへい」と小五郎には読みとれた。
 青年の名は諏訪常吉。会津遊撃隊の隊長であり、矢不来の一戦で敵弾が腕から胸に貫通し、蟠龍で箱館病院に運ばれてきた。
 誰が見ても思わず目をそむけたくなる重傷を負っている。
「……ま……くひき……わ…へい」
 ここに箱館政権側において始めて表立って和平の道を考える男が現れた。
 諏訪はこの時、三十四歳。会津藩士である彼は奥羽越同盟の締結に尽力し仙台で遊説中、鶴ヶ城包囲の一報を受けた。すでに征討軍に会津までの道は封鎖され諏訪は会津に戻ることができず、 会津藩遊撃隊を組織し、やむなく同士たちと榎本艦隊に乗船し箱館に渡った。以来、隊長として仲間たちを率いてきた男である。
 彼はすでに自らの傷の重さを自覚していた。明日をも見れぬ命やも知れぬ。そして矢不来において新政府軍との兵器の差を見て愕然となり、この戦の先行きをはっきりと認識してしまった。
「とめ……ない…と」
 それだけを呟くのがようやくで、諏訪は白目を剥いたままその場でパタリと意識を失う。
 この諏訪の出現が、箱館戦争の先行きにわずかなりとも変化をもたらすのは、これより半月後のことである。
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逝く者、いくもの 23-13

逝く者、いくもの 23章