逝く者、いくもの

10章

 陸軍奉行並土方歳三付小姓「玉置良三」という若者が、年前より箱館病院に入院している。
 病名は「労咳」
 しかも本人は気付きながらも無理をして、土方について蝦夷に渡ってきた。相当の無茶をしたと思われる。個室が与えられ、労咳の二次感染を防ぐための処置がとられていた。
「……玉置くん」
 土方付きの小姓として蝦夷に渡った京都新選組を知る数少ない隊士である。この時、未だ年は十六。
「小五郎さん」
 薬を持ってきた小五郎に、玉置はにこりと笑った。
 希薄なその笑みには生の気力が何一つ感じられない。だが黒き瞳は、生への渇望を、執着を捨ててはいないというかのようにきらめいている。
「いつもすみません」
「いいえ。お気になさらずに」
 この年若い隊士を気にし、よく新選組の仲間が顔を出す。
 小五郎が知る隊士はいないが、誰もが小五郎に「良三を頼みます」と頭を下げていく。
 妙に苦しかった。頼まれても、自分には救う力も病を和らげる力とてない。
 ましてや労咳の末期と診断されている玉置には、もはや施す治療がなく、命を永らえさせるための薬しか煎じることができずにいた。それも効果があるかと言えば首をかしげるものばかり。

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 労咳にはよき空気と安静が第一と言われるが、それも末期患者には通じはしない。
 彼を見ていると妙にいたたまれなくなる。
 同じ労咳患者であるというのに、自分は病みぬけた。生きることに希望も執着もなく、死に焦がれている自分が生きて、生を望む玉置は、もう数えるほどしか生きられない。時に神仏は残酷なことをする。
「……五稜郭に赴かれたと聞きました」
「はい。土方……さんは、元気でしたよ」
「……そうですか」
 一瞬だけ実にうれしげな顔をしたのを見ると、玉置はたいそう土方のことが好きなことが分かる。
「小五郎さんは先生と古くからのお知り合いとお聞きしました」
「えぇ。そうですね、今の玉置くんよりは幾ばくか年上かな。そんな折の土方さんを知っています」
「格好良かったですか」
「えぇ」
「強かったですか」
「でもお化けは苦手みたいですよ。肝試しにいってひどい目にあいましたから」
「先生がですか」
 くすくすと小さく声を立てて笑った。ふとにじみ出る幼さに、まだ彼は十六なのだ、と胸が締め付けられた。
 度胸試しだ、と土方と二人でいわくありげな館に入ったことがある。小五郎が二十歳の時だった。思えば、アレは勝麟太郎にけしかけられだのだ、とふと思い、あぁ勝先生も今では遠い人だな、と自嘲の笑みが浮かぶ。

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 江戸無血開城を成し遂げた稀代の策士も、今では仲間であった幕臣やまたは官軍からも時には命を狙われる身の上となった。
 人のことを子供扱いをし散々にからかって遊んでいた憎らしい勝だが、今は静岡で謹慎と聞くと妙にやるせない気分になる。
「……疲れてはいませんか。少し話しすぎました」
「いいえ。もっと聞きたいです。土方先生の話を。……もっと先生の」
 そこにトントンと扉が遠慮がちに叩かれ、「はい」と玉置が小さく返事をすると、ゆっくりと扉が開き、
「少しは元気になったか、玉置」
 顔を出したのは、先日五稜郭で顔を合わせた大野右仲と、よく顔を出す相馬主計だった。二人とも陸軍奉行添役の立場にある。
 一瞬、息をのんだが、小五郎はそっと席を立ち、椅子を大野に譲り、もう一脚を端より移動させた。
 寡黙で古風な古武士の風格すらある相馬は、きれいな会釈をした。年若いだろうに、彼の雰囲気は重いものを感じる。
「小五郎さん。また先生の話を……また……」
 はい、と笑って小五郎は部屋を出た。
 扉を閉め、わずかに離れた場所で息を吸う。
 胸がきしむほどに緊張した。


「小五郎さん」
 箱館病院調役の勝股百介に声をかけられた。小五郎が振り向くと、人の良い笑顔で、
「この薬をあとで玉置くんに飲ませてあげてください」
 と、薬を一式渡される。

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 一度労咳を病みぬけると、免疫がつき疲労や悪環境に浸るといったことがない限りはぶり返しはそれほど多くない。そのため、玉置については小五郎が任されている節が見受けられた。
 勝亦はもと会津藩士だという。
 自分の身上が知れたならば、会津藩士の立場としては八つ裂きにしたいだろうな、とふと小五郎は思った。かつてあの政変の折、長州を追い落とした薩摩と会津を殺したいほどに小五郎とて憎んだ。
 今も憎悪は胸にある。だが、かつてに比較するとそれは遠くなりつつあった。身が焼けるほどに憎んだというその感情が、今の小五郎にはどこか遠いのだ。靄がかかっているかのように。
 喜怒哀楽がずいぶんと抜け落ちた。
 特に蝦夷に来てからは、あの真白い雪が身を覆い、この身の感情はさらに希薄になっていく。溶けていったのか。それとも感情が凍ったのか。それさえも今の小五郎にはどうでもよいことになってしまっていた。
 京都を駆けた志士桂小五郎はもうどこにもいない。この場にあるのは、その抜けがらに等しき人形。望むは、ただ……戦って死にゆくことだけ。
 ちょうど病室より出てきた大野と、そこでかち会った。
「どうでしたか」
 小五郎が尋ねると、わずかに視線を伏せ、
「どうにかならないんですか。玉置は……」
「私は医者ではないので……なんとも言えませんが」
「このまま死を待つだけ……。アイツは生きたいのに。もっと土方先生の傍でいきたいって言っているんだ」
「大野さん」

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 すると大野の視線はスッと小五郎の瞳を絡めとる。視線をそらすことなど許さない、とその目は強く小五郎を縛った。
「少し付き合ってもらえませんか」
「……はい」
 敷地内の中庭で、人のいないのを確認して後、大野は続ける。
「昔、俺には昌平坂で共に学んだ友がいた」
「……はい」
 それは小五郎も尋ねてみたいと思っていた幼馴染の在りし日の姿につながるのだろう。
 そして大野が「自分」という存在を正確に思いだしたという証明ともなる。
「無茶苦茶な男だった。苛立つと真昼間からなぜか三味線をじゃんじゃが鳴らす。まさに俺様の唯我独尊の男で……」
「はい……」
「最初は一生そりが合わないと邪険にしていたんだが、妙に放っておけないところがあってついつい悪だくみに付き合ったりして……とんでもない男だった」
「………」
「その男が、何度も何度も口にしていた名前があった。俺は耳にたこができるほどに聞いた。……大好きな桂さん」
「………」
「よく言っていた。桂さんの役に立てる男になる。いっとう役に立てる男になっちゃる。傍で守って共に生涯を生きる」
「……大野さん……」
「あんな途方もない男にそこまで思われて、大切に思われて、なんと気の毒な人だと思った。あの男のことだ。きっと最期の最後まで……その桂さんを思って逝ったんだと俺は思っている」

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「………」
 ……桂さん。
 今でもこの耳に思い返さずとも、よぎる幼馴染の声音。
 ……桂さん。
 にっこりと満面の笑顔で自分を見るあの顔は、いつも掛け値なしの愛情が全面に出されていた。
 人の愛情に疎い小五郎をして、全幅の信頼と疑いようのない慈しみ。
 この手を差しのばせば、いつも握り返した……熱い手。
 その手が骨と皮だけになって……小五郎の手を握って、
 ……生きて、いきて。桂さん、いきるんじゃ。
 最も残酷な言葉を、放った。
「破天荒にらしく生きた友を……俺は今でも誇りにしている」
 だから、と大野はわずかに瞳を細めた。
「アイツを裏切ることは許せない。今のあなたは、まるでアイツの生き方を否定している。命をかけて守ると言わしめたあなたが、なぜにここにいる。そんな……死にたそうな顔をして」
「……大野さん。私は……」
「本多さん相手にあれだけの剣を使えるあなただ。剣士としても、または長州の……長州の首魁としてあの朝廷を抑える力とてあろう。それとも新政府はこの蝦夷の自治を認める気なのか」
「……大野さんはよく承知していると思っています」
「………」
「私がここにいるのは御承知の通りです。私は……死ににきただけです」
「……あなたは」
 大野は怒りのままに小五郎の胸倉をつかんだ。

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「長州の首魁なんだろう。長州を率いる総元締めだろう。……それが……死んでいったものの思いをどう思っているんだ。あなたに託して高杉は……逝ったんじゃないのか」
 胸倉をつかむ手はかすかに震えていた。
「人は皆、ずるいですよ。私は託されたくはない。願われたくもない。私は……こんな人間です。一人の幼馴染がいなくなって、もう生きる気力とてない」
「あなたは……」
「私はすべてが終わったら、あの無鉄砲な幼馴染と余生を過ごすことだけを楽しみにしていたというのに。私に押しつけて、逝ってしまった。生きて、と残酷な言葉を残して、いったのです。残されたものはどうすればよいのでしょう。私は自分の責任と信念をもって、彼亡き後、進んできました。そして今、ほぼ私の役割は終わりました。大野又七郎殿」
 小五郎は儚く微笑む。
「私は死にたい。死にたいのです。どうか……それだけの望みしかない私を放っておいてくださいませんか」
「あなたは高杉の生き方を、死を、無駄にするのか」
「これからの世は私がなくとも進みます」
「高杉は……あなたに託していったはずだ」
「私は自分の義務を約束を守って生きてきた」
「あなたは」
「大野さん。……泣いて泣いて泣きつくして、涙が枯れても、それでも生きねばならぬというのは……どれほどに生き地獄か知っていますか」
「………」
 小五郎は泣きそうになるのを堪えて、笑う。

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「私はアレの死をこの目で見て、逃げたくて仕方なかった。いっそ、一緒に逝ってやれれば良かったのに、それさえも誰も許してくれなかった。そんな私がようやく手にした死に場所です。この箱館政権にとって八つ裂きにしても余りある私ですが、幼馴染に免じて、私を放っておいてください」
「……高杉が泣いている」
「………」
「俺は高杉の悪だくみをしている顔しか知らない。……泣いている顔など見たことがない。だが今のあなたを見たら、泣くな、と思う。命より大切にしていたあなたが、こんなにも死だけを思って、しかも敵地に単身で死ぬためだけにいるなど……殴りたくなる。その通りだ。ここなら死ねる。正体が悟られた場合も、来るべき戦に際して流れ弾にあたろうとも、切り込もうとも間違いなく死ねる」
 それで良いのか、と大野は打ち捨てるかのように言った。
 微笑んで「えぇ」と答えた小五郎を睨みつける目は、在りし日の友を思ってか、口惜しさと悲しみに染まっている。
「もうひとつ。土方先生をだましているのか。あなたと土方先生は……」
「私はただの和田小五郎として土方に出会った。きっと……江戸に戻るまで土方は私のことを知らずに……いた」
 ただの小五郎と歳として、江戸を駆け巡った日日はもう夢のようだ。
「そ……そんなことがあるのか」
「新選組の捕縛目的一番手であったものが、実は昔馴染みであった、と。ただそれだけです」
 どれほどに土方は京都で自分を追っただろう。

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 真昼間に自分と会うと「小五郎殿」と懐かしげに笑ったあの頃の土方は、自分のこともあえて気づかぬように暗示をかけていたのかもしれない。頑なにただの対馬藩士だと思いこみ、新選組に誘った。
「土方は今の私を殺しても仕方なし、と思っています。できるならば京都で……殺したかったと言っている」
「だましてはいないということだな」
「………」
「なら、いい。土方先生をだましているなら……」
「斬ろうと思いましたか」
「俺ではあなたにはとても勝てないだろうが」
 仕方ない、と笑い、大野はそこで背を向けた。
「俺は何も知らない。何も見ていない、聞いてもいない」
「感謝します」
 スッと頭を下げた小五郎に、大野は苦々しく唇を噛む。
「俺は今のあなたを許せはしない。高杉があまりに可哀そうすぎる」
 軽蔑する、と暗に叩きつけられたが、小五郎の心には何一つ響かなかった。
 痛みがないと言えば嘘となる。幼馴染を引け合いにだされているのだ。突き刺さるものは確かにあった。
 だが、覚悟を決めて蝦夷に渡った小五郎の心は動きはしない。
 焦がれ過ぎた死を掴めるなら、どのような汚名をも受けよう。
「……桜を見て逝きましたか、高杉は」
「……好きな梅も桜も見てから……逝きました」
「花を見るとあなたを思い出す、と照れながらいっていたのを思い出した。高杉は本当にあなたが好きだった」

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「………」
「人があんなに無邪気に人を愛せるものかと感心したものです。共に生涯を渡る、といってうれしそうに……笑っていた。若くして生涯を誓う大切な人間に出会えたことをうらやましく思ったものだ。あなたを思うとき、あの小憎らしい男が実に可愛く見えたものです。桂さん桂さん……うるさかったが……アイツは本当にあなたのことが好きだったんだ」
 小五郎はただ立ち尽くして震える大野の背中を見据えていた。
「花見がしたいな、桂さんと一緒に。月を見たい、桂さんと一緒に。……傍にいたい。一緒にいきたい。……共にいきたい」
「やめて……ください」
「アイツが時勢や政治について語らん時は、いつもあなたのことばかりだった」
「………」
「……大好きな桂さん」
 あえて小五郎は耳をふさいだ。聞きたくはない。哀しくて、苦しくて……また思い出してしまう。
 ……いっとう好きじゃ、桂さん。
 何度も何度もつぶやいたその一言が、
 ……自分には桂さんだけじゃ。
 誓うと笑った幼馴染の顔が目の前に浮かび、そして責めるかのように小五郎を見ている。
 ……いきて、いきて、桂さん。
「私はもう……一人で……いきたくはない」
 地にパタリと崩れ落ちた小五郎を、大野は振り返ることはなく、そのまま去っていく。
 小五郎にはもうその背中を視線で追うゆとりすらない。

逝く者、いくもの 10-10

 久しぶりに聞いた幼馴染の名に、心が締め付けられて……嗚咽すら出なかった。
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逝く者、いくもの 10-11

逝く者、いくもの 10章

  • 【初出】 2010年7月12日
  • 【改定版】 2011年6月18日   【修正版】 2012年12月21日(金)  【第二次修正版】 2017年1月26日(木)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。