逝く者、いくもの

19章

 今、日は沈もうとしている。
 宿陣に横たわる小五郎を、先ほどから山田は戦慄きながら見つめている。
 半時ほど前であった。山田は半ば無理やり小五郎の身体を軍医に見せた。往診中、小五郎は一言も口を開こうとはしない。黙々と医者の言うがままになっていた。
 脈と胸の音を診て後、医者はひとつ吐息を落として、厳かに告げたのは予想だにしない言葉だった。
『労咳をやりましたな』
 小五郎の返事はない。その目はどこか遠いところを見ていてうつろに揺らぐ。反応したのは山田の方だ。その場にて呼吸をするのも忘れるほどに驚愕し、見るからに血の気が引いていく。軍医は小さな声で山田に告げた。
『労咳のようです。随分と良くなってはおりますが』
『本当なのか』
 山田はつい大きな声をあげてしまった。
 見れば小五郎の身体は、よくあれだけの剣技を見せたもの、と感心してしまうほどに、やせ衰えている。体力など一欠片も見られない。もともと細身な小五郎だったが、 今では、華奢という言葉がしっくりあてはまるほどに細くなり、顔などは頬や顎もとの肉がきれいに殺げたからか、どことなく若返ったかのようにも見える。長年の付き合いの山田でさえ一見では小五郎と判じられなかったほどだ。
 小五郎はおもむろに目を閉ざした。

逝く者、いくもの 19-1

答える気はないことを暗黙に告げている。
『この症状だと随分と前に発病し、きちんと医者の手当てを受け安静にしていたのでしょう。無理をしなければ回復します』
 その言葉にホッとしつつも、山田は心配でならず、そっと小五郎の手を握り締めてしまった。
 征討軍参謀として各地を転戦し、ようやく仙台が恭順し、盛岡、会津が片付いたと思えば、次に箱館で戦の火があがった。
 休む暇さえない。すぐさま奥羽に布陣するよう命令を受けた。
 かの宮古湾でのアボロダージュ作戦を聞いて以来、厄介なことになったな、と山田はポリポリと頭をかく。
 ……蝦夷共和国。
 どこまで旧幕臣や各地の敗残兵は本気かは知れなかった。蝦夷のみ中央より独立して新しい国家を作るなど絵空事に等しい。軍備もない。金もない。人もない。 ましてや広大な蝦夷を開拓するその構想を本気で持っているのか。
 だが宮古湾の襲撃の一報を聞いたとき、本気だ、と山田は確信した。
 箱館側は最新の軍艦開陽を保有していたが、江差において座礁させた。来るべき一戦において軍艦が明らかに足りない。ゆえに宮古湾に浮く最新鋭の甲鉄艦を奪取しに来た。 単純にして明解な考えだ。なんと無鉄砲な奴らだろう。だが山田はそういう馬鹿が嫌いではない。
 新政府よりの命令により弘前に征討軍を招集した山田だった。
 その中に、薩摩側より派遣されてきた一人の男がいる。
『あん中にな大鳥さぁがおいもす。あん人は非凡で……これからの国家のためにも亡くすのは惜しか』
 参謀黒田了介だ。

逝く者、いくもの 19-2

黒田は煩い。寝ても醒めても「大鳥さぁん」と叫び続けている。あまりに煩いので尻を足蹴にしておいたが、今でも布陣している江差から五稜郭に向かって「大鳥さぁん」と叫んでいるだろう。
 箱館政権の陸軍奉行である大鳥圭介は、旧幕府において歩兵奉行であり、その博識は政府内でも大きく取りざたされている。江川塾の教官をしていた際に、 何度か薩摩藩邸で教授をしたことがある縁から、薩摩方に縁者が多い。また薩摩藩は江川塾に何人もの若手藩士を入塾させていた。黒田もその一人だという。向かう敵はかつての教官。 しかも黒田の騒ぎっぷりから想像するに、相当に慕っている。
 だがこの黒田は一言も二言も多い。
『山田さぁを見とうと、大鳥さぁを思い出しもんで。背の小ささや童顔などそっくいござんで。まぁ山田さぁみたいに大鳥さぁは凶暴ではあいもはんが。見ていてほんわかすうちゅうか』
 この男とは長岡の一戦で幾ばくか口論をしたくらいの仲だが、この瞬間、山田にとっては敵になった。
 まだ付き合いが浅いためか彼は知らなかったのだろう。この山田には「背と童顔」のことは禁句であることを。
『黒田、抹殺』
 と叫び、山田は散々に黒田を足蹴にし、その場にて打ちのめした。
 その黒田の話は思い出したくもないので横に放り投げることにして、確かにあの箱館の中には、政府軍にとっての知人は数多くいよう。
 その中でも縁故でがっちり縛られている人間は、いちばんに厄介だ。黒田という男は情に厚い。いざという場合の処置を情により間違う男ではないとは思うが、

逝く者、いくもの 19-3

よくよく監視しておかねば何を仕出かすか知れない、と山田は注視していた。
『大鳥って頭は頗るいいけど、軍人には向かないって奴だろう。板垣がいっていたさ。書物の知識で事を進める大鳥より、一隊を預かっていた沼間の方がすこぶる怖かったってさ』
 大鳥という男は、官僚としてならば確かに大物となろう。その四ヶ国語をわずかの時間で体得したという頭は、評判どおり「知識の泉」に違いない。
 だが軍人としては型にはまる「知識人」は、得てして役に立たない。
 すると黒田はこたつに入りながら、恐ろしい一言を呟くのだ。
『五稜郭を一挙に攻め落としやすか』
 わずかに頭に血が上った山田は、今度は黒田の腹を殴る。
『そのおまえの先生は、きっとおまえの性格はよぉく心得ているだろうさ。五稜郭を一挙攻撃など……見破られて罠なんてごめんさ』
 新政府軍の兵力をもってすればできないことでもなかったが、あえて危険な賭けには山田は打って出なかった。
 今でもその判断は間違っていないと思うが、各陣で少年のような年の子どもが襲い掛かってくるさまには胸が痛み、一日でも早く戦争を終わらせねばならないと誓う。
「気がつきましたか」
 宿陣の一室で横になっていた小五郎が、いつのまにか目を開けている。
 山田は今となっては五稜郭総攻撃、箱館市街に大砲を打ち込むことをしなくて良かったと心から思うのだ。昨年より行方不明となっている小五郎が、蝦夷にいるとは夢にも思わなかった。

逝く者、いくもの 19-4

「僕が分かりますか、か…つら……いや、違ったね。木戸さん」
 昔から呼び続けていた名である「桂さん」と呼んでしまいそうになり、少しばかり苦く山田は笑った。
「とにかく無事でよかった。ゆっくりと寝ていてよ。ここだと安心だよ」
 山田は極力ニタニタと笑いながら、小五郎の枕元に座っていた。
 弘前より運んできた兵糧の中には季節外れのみかんがあり、それを小五郎のために剥く。
 それにしても今もって信じられはしない。
 江戸より忽然と小五郎が消え半年。伊藤などが懸命に探索し、ついには山縣の奇兵隊まで出したが見つかりはしなかった小五郎だ。
 共に首都の調査をしていた大木喬任の話では、山賊に襲われたという。その際、武芸一般まるで心得のない大木を逃すために、小五郎が盾になったと聞く。
(反対だろうが)
 これより政府を担う小五郎が、犠牲になってどうする。
 だが剣にかけては長州一といわれる小五郎だった。そう簡単に山賊の餌食とはなるまい。ましてや衰えたとはいえ、小五郎の脚力は常人をはるかに凌ぐ。なにせあの新選組が跋扈する都大路を逃げ切って見せた小五郎だ。
 逃げおおせたが、おそらく深手を負ったに違いないと判じた。身動き取れないのか。それとも傷の療養のために動かずにいるのか。伊藤などが躍起になって探索に当たっているが、成果がまるでなし。
「生死定かならず」と御所に届け出ることはできない。

逝く者、いくもの 19-5

小五郎は長州の首魁だ。その身は政治が付き纏う。伊藤は長州側の勢力衰退に陥ると判断し、それを回避するために「休養届け・帰国願い」を急遽提出した。苦肉の策である。 だが御所内には死亡説、陰謀説までが流れはじめるありさまだ。
『僕が一緒に居けば……大木などといかせたのがいけなかった』
 と、伊藤が毎日のように叫んだ。
 もしやと思うが、山賊に捕縛され、人買いにでも売られたか。小五郎に限ってまさかとは思うが可能性がない訳ではない。それにしても、だ。行方がどこからも報告があがらないとはどういうことなのだろう。
 まさに不意に消えてしまい、長州側は現在大混乱中といえる。
 だが誰もが信じている。きっと生きている。そして戻ってくる、と。
(木戸さんが僕たちを見捨てるはずがない)
 仲間ゆえに信じている。仲間ゆえに何があろうとも信じ抜く。
 だが、山田にとって残酷な答えが、今、目の前にある。
(長州の首魁が、なぜ、蝦夷などにいるのか)
 征討軍に申したき儀あり、と一人で飛びこんできた小五郎。その手に刀を握り、向かい来る男たちを一撃で沈め、ひたすらに前へ前へと進む姿に、山田は戦慄を覚えた。
 まるで「殺してくれ」と叫んでいるのかのように見え、その身を包みこむ悲壮感が儚いほどに壮絶で苦しかった。
 この蝦夷地に何をしに来たのか。答えはもう当に知っているが、認めたくはない。
「みかん食べる?」
 小五郎は首を振り、起き上がろうとするので、慌てて山田が止めた。

逝く者、いくもの 19-6

「……労咳だったの」
 意を決して山田は尋ねる。
「どうして蝦夷に来たの。みんな山賊に襲われたって大騒ぎなのに。どうして……そんなに木戸さん……」
 ……死にたいの?
 山田は心細げに呟く。
 うつろな小五郎の目が、ゆっくりと山田の顔に降り立った。ゴクリと山田は唾を飲む。なんと無感動な目なのか。なんと輝きのない暗い目をするのだろう。こんな目をする男は知らない。少なくとも山田の知る小五郎ではない。
「……私の役目は終わったのだよ」
 山田が剥いたみかんの身をひとつ手に取り、そっと小五郎は口の中に入れた。
「終わってなどいない。みんな半狂乱になっているんだ。伊藤さんなんかミイラのような顔色だっていうよ。井上さんもガタも大村先生も、みんなみんな……みんな……心配している」
「それもすべて捨ててここに来た」
 小五郎の声音には何一つ迷いも躊躇いもない。
「木戸さん!」
 山田の方が狼狽した。
「……私はもうただの一介の兵士だよ」
 そこで小五郎は立ち上がる。外の様子が気になっているようだ。
「政府には木戸さんが必要だよ。これからは特に」
「………」
「お願いだから、僕と一緒に帰ろう。萩に帰国中としてあるから……大丈夫だから」

逝く者、いくもの 19-7

「すべてを捨てた私が、戻ると思うかい」
 そしてわずかに口元に滲ませた微笑は、すでに覚悟に染まっていた。誰をも踏み込ませない。木戸ならではの拒絶である。
「……僕らを捨てるの」
 口からは心細げな声が漏れた。
「捨ててきた。ゆえに私は一介の兵士。ただの医者見習いかな」
「木戸さん」
「そこを退きなさい……。征討軍参謀の君と話すことなどないよ」
「ダメだよ。安静にしていないと。労咳なんでしょう。だから」
 素早く動いた小五郎は、部屋の隅に立てられている愛刀を手にし、躊躇なく鞘より抜いた。
「木戸さん!」
「私を殺さないのなら、私は……みんなのもとに帰らないとならない。だから……」
 小五郎はそのとき、ゆっくりと目を閉じ、愛刀の刃の切っ先を山田に向けた。
「山田市之允」
 ピクリと山田の肩が震えた。
 刀を持つと小五郎は変化する。それは刀によって自らを磨いたもののみが抱く気か。静謐にして微動だにしない。無の気を自らが編み出す。
「き、木戸さん!」
 驚いた山田だが、気に飲まれたのか。その場に縫い止められたかのように一歩たりとも動くことができない。
「私をここから出しなさい。そして……逃しなさい」
「ダメだって。ゆっくりと安静にしていてよ。戦は僕らが……」

逝く者、いくもの 19-8

「私はここから出せ、といっている」
 山田の目よりは熱いものが込み上げてきた。身体は戦慄いて、理性ではどうにも震えを止めることなどできそうにない。
 無自覚にポツリと声を放ってしまった。
「……そんなに僕たちを捨てたかったの」
「通しなさい」
「そんなに僕らを捨てて、高杉さんのところに逝きたい? 今の木戸さんを見れば高杉さんは悲しむだけだよ」
「………」
「お願いだから……お願いだよ、木戸さん」
「通しなさい。それともこの私にこの刃を……君に向けさせたい……か」
 常日頃より沈着冷静な小五郎だ。それは刀を持った今も変わらない。ただ違いと言えば、そう今の小五郎は感情では左右されないということだ。
 だがあえて山田はその感情に訴えることにした。
「いいよ、木戸さん。僕の命ですむなら……。だって僕は、木戸さんの方が大事だから」
 だから僕一人で済ませて、どうかここに留まって欲しい。
 山田はあえて両腕を差しのばすと、小五郎は一瞬苦しげな目をし、次の瞬間、刃を自分自身に返したのだ。
 切っ先が喉に当たる。ツーっと滲む血に山田の血の気が引いた。
 この手でくるとは思わなかった。
 よく小五郎は承知だ。ここから逃れる術があるとすれば、そうして自分を人質にするしかない。
「……すまない」

逝く者、いくもの 19-9

「謝るならその刀、下ろしてよ。その血……手当てをさせてよ。お願いだから、僕といっしょに東京に戻ってよ」
「すまない……」
「なら、謝らないでよ。そんな顔をしないで。それから……ぜったいに死なないでよ。お願いだから……死なないで」
 山田の横を通り抜けて小五郎は外に出て行った。
 周囲には長州の少年兵しかいない。あえて小五郎の顔を知らぬものだけ配置してある。
 そして「出て行く」ならば、決して追わぬように、と指示してあった。
 始めより覚悟はしていた。この自分ではその意思を変えさせることはできない。今の小五郎を止めえる人がいるならば、それは鬼籍に入ったあの長州の魔王のみであろう。誰も何者もその往く手を阻むことは許されない。ゆえに小五郎は「長州の首魁」だ。
 ……死なないで。
 いつも心に決めたならば、迷いなく走りとおす人だから、
 その顔に浮かぶ「死」が山田には恐怖であり、縛り付けてでも留めておきたいというのが本音だった。
 だが、小五郎を心より慕う山田には、長州の首魁を意思を強引にねじ伏せることはできない。
 死地に赴くというのに、どうしても制止できない。
 多くの同士を亡くして後、維新のために小五郎はどれだけ心を殺してつとめてきたか。すべて新しい国の夜明けのためであった。そして、その後を小五郎はきっと何一つ考えてはいなかったのではないか。
 望むとすれば、大切すぎた幼馴染のもとに還ることだけなのではないか。

逝く者、いくもの 19-10

「お願いだから……死なないで」
 生きてくれるならば、すべて小五郎の望むがままに。
 ただその命が大切だから、お願いだから。
「死なないでよ。死なないで。お願いだから死なないで、桂さん」


 四月十九日、夕暮れ時。小五郎は走る。一目散に来た道を走る。
 死出の道よと駆けた道を、今は、ただ仲間たちの元に戻ることだけを考え、ひたすらに走った。
 ……死なないで。
 山田の悲痛なる一声が、頭にこびりつくようにして離れはしない。
『死なないで』
 それは小五郎自身、かつて死にゆく友に一度としてかけることができなかった言葉だった。
 福島に引きあげていた松前守備隊は、全軍木古内に向けて撤収に入った。一部は知内に残ったが、十九日中に木古内で合流を果たす。
 そして四月二十日。
 早朝。霧が一帯を覆いかぶさる最中、
 木古内に進軍していた征討軍は奇襲を仕掛けた。
 夥しい掛け声に気づいたのは間もなくのこと。星恂太郎は叩き起きる。傍には伊庭八郎もいた。
「敵さんもやってくれる」
 星は笑った。

逝く者、いくもの 19-11

 受けるように伊庭もコクリと頷き、その美麗な顔に透き通るような笑みを滲ます。
「おいらはついているねぇ」
 隻腕でありながらも人の手を借りずに、伊庭は身支度を済ませた。
「どうやら死に送れずにすみそうだよ。小太は、一日くらいなら待っていてくれる」
 昨日、折戸浜で戦死した親友を思い、挽歌をしたためた伊庭だった。その歌を懐に治めて、愛刀を手に外に打って出る。
「星さん、先にいっているよ」
 その後を遊撃隊の隊士がいっせいに続いた。
「格好いいねぇ。さて俺は、この稲荷山が持ち場だ。額兵隊は俺に続け」
 奇襲により機先を制された箱館側は、徐々に征討軍に押され、ついには札苅に撤退。
 木古内市街は火が放たれ炎上し、その業火はひたすらに走る小五郎の目にも映っていた。
▼ 逝く者、いくもの 二十章へ

逝く者、いくもの 19-12

逝く者、いくもの 19章