逝く者、いくもの

25章

 人の声がした。
 ハッと目を覚ました本多は、目の前で眠っていた大鳥がいないことに息を呑む。いつ頃目覚めて陣を出たのだろうか。
 人の気配に敏い自分が、大鳥が目覚めた気配に気付かなかった。椅子に畳まれて置かれている上着を手に外に出ると、そこには空を見据えている大鳥の姿があってホッと胸をなでおろした。
「おはよう」
 大鳥はにっこりと笑って、本多に視線を移す。
「少しは眠ったか。……それと、なんでさっさと起こさなかったんだ」
 そこで少しむくれた顔をする大鳥を見て本多は自然と笑みを口元に浮かばせ、
「大鳥さんこそ少しは眠れましたか」
 穏やかな口調でそう尋ねた。
「俺のことじゃなくて」
「五稜郭の伝令がそろそろ戻るころです。榎本総裁が到着次第、軍議ですね」
 本多は大鳥の傍らに立ち、空を見上げる。あぁなんて青い空か。こんな晴天の下で人は戦をするのだ、と思うと妙にやるせない気分になった。
「今、会津遊撃隊の差配役を呼んでもらっている」
 本多は軽く頷いたが、昨日の矢不来において征討軍の陸と海からの攻撃により遊撃隊の多くの面々が戦死したことが頭にかすめた。その中に差配役たちの顔もあった。

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 海からは甲鉄からの大砲の乱射。陸からは怒涛のように迫る征討軍の軍勢は箱館軍の三倍近い数にのぼっていた。
 地獄という言葉がある。幼き時より仏法の教えや寺院の絵図で「地獄」というものを見てきた。想像したことも何度もある。伝習隊の一員として刀やシャスポー銃を撃ち放つ際に、おそらく自分は地獄に堕ちるのだろうと何気なく感じたこともあった。それは悲観ではなく、逃れられぬ現実として受け止めてきた。
 だが世の中、想像上の「地獄」を超える光景を目にすることもあるようだ。
 海よりの砲撃は多くの仲間の命を奪った。傍らにいた男が砲撃をくらい一瞬にして肉塊となった。あるものは足を奪われ、あるものは顔半分がない死体を野に晒す。
 馬上にある本多はこの現実離れした光景に笑いたくなった。宇都宮から母成と戦場を駆けてきたが、この矢不来での一戦は戦争ではない。圧倒的な兵力・兵器の差による殺りくが起きているだけだった。
 戦場は狂気の渦という表現もあるが、一方的な殺戮を前にすれば人は自我を保つ方が難しいと知る。その狂気に染まりかけた本多を一瞬にして我に戻したのは大鳥の声だった。
『撤退だ、本多。負傷兵は敵艦の砲撃の合間を見てどうにか蟠龍に乗船させる』
 大鳥の現実を見据えるその目が本多に冷静さを取り戻させた。
 なんとも情けないと本多は心底で猛省しつつ、負傷兵の搬送の指示に入る。大鳥の楯になることを望んでいると言うのに、その自分が一瞬でも我を失うなど情けなさすぎる。常に冷静でありたいと自分を律しているつもりだが、想像を超える事態に遭遇すると冷静という言葉も泡のように消えうせてしまうものらしい。

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 撤退しこの富川に布陣したが、矢不来を突破した征討軍と激突するにはこの富川の地は地形的にも不利。矢不来の如し台場の用意もない。海に面しているため艦隊より矢のように砲撃を浴びるのも自明の理である。
 この富川を突破されれば次なる布陣の場所は有川。そして七重浜となろう。五稜郭と七重浜の距離はわずか三里あるかないかだ。もうすぐあの箱館の地が戦場となる。
「なぁ本多」
 いつからか大鳥がジッと本多の横顔を見ていた。
「近くの富川八幡宮で厄祓いでもしてもらうか」
「……」
 一瞬だが大鳥の意図が読めずにただその顔を見ていたら「死神祓い」と大鳥は笑った。
「その間に敵が攻撃してきたら大変ですね」
「あぁ大変だ。箱館側の陸軍奉行は戦の最中に厄祓いをしていたと後世の語り草になるかもしれんな」
 顔を見合わせてわずかに笑ったが、すぐに真顔となって互いの目を見る。軽口ですら妙に居たたまれない気分になった。
「二股の土方くんのもとには撤退の伝令を送ったよ」
 それにはただ「はい」とのみ返事するしかない。
 二股口では土方歳三率いる部隊が征討軍を抑え込んでいる。何十もの胸壁をめぐらした台場山を征討軍は攻めあぐねていると報告も受けていた。
「戻った土方くんに蹴飛ばされるな」
 ポリポリと頭をかいて大鳥は数歩進んで、振り返る。
「この状況じゃ蹴りくらいは当然。ついでに……あの諏訪くんの置き手紙についてもこの状況だからかもしれない」

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 その言葉に自然と足が動き、本多は大鳥の傍らに立った。
 昨日の矢不来での征討軍との一戦において負傷した会津遊撃隊隊長の諏訪は陣営に征討軍宛ての手紙を置いてきた。意識も朦朧とした中で書き、部下に託して置かせたものだという。その手紙の内容はその部下によりもたらされた。
 ……然るは小子儀、素より戦を好まずに候。
 この置き手紙には、やむなく当地を引揚げるが、やむをえない状況に立ち至った場合は武器をもってお相手いたす。その際は御容赦されたい。という文面が記されている。読み方によっては和平の意思とも取ることができた。
「いつの時代も和睦の提案は敵より先に味方の中からあがるものです」
 明日をも知れぬ重傷を負った諏訪はこの手紙をどんな思いでしたためたのか。そこにあるのは絶望であったか。それとも微かな光を込めたのか。その真意は知れぬが、この手紙の存在は味方に知れ渡り少なからず動揺が広がっている。
 昨日本多が「困ったこと」として大鳥に告げたのも、この諏訪の置き手紙のことだった。
「二股口を撤退させることも、諏訪くんの置き手紙も結局は同じことかな」
 大鳥は空を見上げた。
 矢不来を征討軍に突破された今となっては、二股口に布陣する土方隊は退路を断たれる恐れがある。現にこの富川でも敗色は濃厚だ。五稜郭に至る経路を確保するには時期を逸してはならない。機を見るに敏な土方ならばすぐにも撤退の準備に入るだろう。また二股口を攻めあぐねた征討軍が迂回する経路を切り開き始めたという報告もある。

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 諏訪常吉のこの置き手紙も矢不来での敗戦が素となっているならば、大鳥が言うが通りに「同じこと」なのかもしれない。
 この後、箱館の市街戦に至るだろうこの時期において仲間内より和平の声があがるのは兵士の士気に関わってくる。そのことを危惧して五稜郭に伝令を出し榎本総裁自ら戦陣に立ち士気を鼓舞してもらおうと考えた。
「長い一日になるな」
 答える言葉もなく本多も空を見上げた。そこに悠然と空を翔る鷲の姿が見え、追う。大鳥も見ていた。


 続々と矢不来から搬送される負傷兵が戦争の激しさを物語っていた。事実、箱館戦争においてこの矢不来での一戦は最大の激戦とも言われている。
 松前方面より矢不来へ攻めかかる先陣は松前藩や弘前藩の藩兵が多かったらしい。弘前藩については奥羽越列藩同盟に加盟した手前、すぐに脱退したとは言えこの戦争が藩の存亡と考え、箱館に渡る船の手配から兵糧まで藩をあげて新政府に尽くした。だが一度は新政府に刃向った身の扱いは悲惨を極めた。 矢不来の激戦地に至る坂道を弘前藩兵は先陣を切って進む。箱館側は銃を構えて待ちうけているのを藩兵は知っていた。体の良い弾よけである。いつの時代も寝返りモノの身は辛酸を嘗める。
「小五郎さん」
 箱館病院には次から次にと負傷兵が運ばれてくる。現在の小五郎の役割としては、ひたすらに井戸から水を運ぶことと言えた。桶を手にいったい何往復したか知れない。それでも休むことなく往復する。清水が必要な状況だ。

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「水汲みを代わろう。君は朝から休みなく動いている。少しは休まないと……」
 声をかけてきた調役の勝股は、小五郎が箱館病院の一室で隔離治療を受けていたころを知っている。疲労を心配しているのだろう。結核は治まってから一年ほどは再発の可能性が高いらしい。
「大丈夫です。勝股さんもそろそろ分院に行かねばならないはずですよ」
 疲労はあったが小五郎はあえて笑った。
「高松さんが心配している」
 勝股は小五郎より桶を奪い、厳しい声で言った。
「水汲みより薬を煎じて欲しい。君には医学の心得がある」
 会津藩士である勝股は箱館病院調役として赴任したが、医学の心得はなかった。それは事務長の小野も同じである。
 病院内に戻ると一瞬にして鼻につく血の臭いをかき分けて、小五郎は高松の姿を探すと、
「小五郎くん。ヨモギの葉を揉んで傷にあててくれ。早く」
 先に高松が小五郎を見つけ、声を張り上げてそう命じた。小五郎は頷くだけですぐに動く。肉が削がれた負傷兵の声にはならぬ声。叫べるものはまだ助かる可能性がある。小五郎は呻く患者に近寄り常備しているヨモギの葉を手にしてそれを揉んで傷にあてていく。 包帯はすでに切れており清潔な衣類を包帯代わりとして使用していた。
「しっかりしてください、諏訪さん」
 蓮沼が必死な声で叫ぶ。
 会津遊撃隊の軍医である蓮沼誠造は、今は箱館病院専任となり高松の助手を務めている。昨日搬送された諏訪常吉にほぼ付きっきりで看護にあたっていたが、諏訪の意識は戻りはしない。

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 諏訪の存在は会津藩出身者にとっては道しるべなのかもしれない。昨日は事務長の小野も眠らずに諏訪を診ていた。勝股も同様だ。
 諏訪は三十代半ば。まだ若い。
 ヨモギの葉がなくなったので、開拓方として室蘭に赴いている元開陽の乗組員たちより送られてきた葛の葉を絞り、その汁を負傷兵の傷に塗る。葛の葉の汁は止血に即効性がある。実家は眼科を生業にしていたが、 藩医でもあったので小五郎は父が薬を処方するのを横で見ていた。そのため漢方の簡単な薬の処方は心得ている。
「染みますが耐えてください」
 腕に深い切り傷を負った青年はニッと笑った。その顔が「私は武士だ」と言っている。
 未だに血が流れるその傷に葛の葉の汁を流すと、青年は意識を失いかけた。それでも歯を食いしばって耐える。その目、その顔から目をそむけず小五郎は布で傷を縛った。
 その横にはまだあどけない顔をした少年が苦しんでいる。声にならぬ声を必死に紡いでいた。
 小五郎はその枕元に座し、少年が動かそうとしている手を握り締める。声はないが唇が必死に動いていた。それは「ははうえ」と言葉を刻む。すでに虫の息なのは分かっていた。高松も処置の仕様がない。 小五郎にできることなどこうして手を握ることだけだ。
「しっかりしてください」
 叫んでもこの声が耳に届いているかも分からない。
 まさに病院内は阿鼻叫喚の地獄となっている。
 その時、どこからか笛の音が耳に伝った。驚いて顔をあげた

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小五郎だが、誰も驚いた顔はしていない。これは弔いの笛だ。
「弔いの音か」
 諏訪を診ている蓮沼が呟いた。
「……」
 また一人逝ったのだろう。
 病院内で死した人を弔うがためにいつしか笛が奏でられるようになった。鎮魂の調べはわずかなりとも弔いと思いを誰もに抱かせる。ここ数日、この笛の音を聞かぬ日はない。
 その時、握りしめていた少年の手が軽く小五郎の手を握った。ハッとして少年を見ると、軽く微笑んで小五郎を見ている。そこに一縷の光明が見えたかと思ったそのすぐ後に、少年はゆっくりと目を閉ざした。
 それは手を握った小五郎への感謝の微笑みだったのかもしれない。病院では多くの死に触れる小五郎だが、今は居たたまれない気分に苛まれる。心が悲鳴をあげて、気付いたら外に飛び出していた。
 少年は笛の音に見送られて近くの寺に葬られるだろう。ゆかりなきこの地で戦で倒れ身も蝦夷の地で眠る。それは小五郎が望んだ「末路」であったというのに、今はなぜかむなしさだけが身に巣くう。
 哀しかった。坂を登り波打つ海を眼下にとらえ、激情が発露したのか涙が落ちた。
「小五郎さん」
 その小五郎を追って来たのか勝股が坂を登ってくるのが見えた。慌てて涙を袖で拭い、横に立った勝股の精悍な顔を横目で見た時、鐘が鳴った。露西亜領事館内の教会の鐘が、静寂なこの通りに響き渡る。

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 小五郎は顔を音が鳴る北東に向けた。うっすらと見える露西亜領事館を睨みつけて、心底では「煩い」と叫びたかった。
 その鐘は毎日同じ時刻に鳴る。沢辺が鎮魂の調べだと言っていたが、まるで人の死を嗅ぎつけたかのように鳴るこの音が今は無性に腹立たしい。
 教会の説法も鎮魂の鐘もこの戦争を止められはしない。できることはと言えば死者を悼み祈ることだけだろう。直接的には何もできない。今も富川では戦争が続いている。人が傷つき、人が死ぬ。同じ国に住まうものが闘いあって、いったい最期に何が残るのか。
(私は……)
 その答えを知っていたはずだった。だが今は何も分からない。まるでこの心は白紙だと揶揄が口元に浮かんだときに、
「君は武士だね」
 海を見ながら勝股はいった。
「今のように簡単に人の死に狼狽するかと思えば、途端に恐ろしき目をする」
 答えはせず、小五郎は大きく息を吸った。
「……大義は人の命より大切なのでしょうか」
「さて。私も会津の藩士だったから、君命は命より重いと当然のように思っている。だが高松さんは命より尊いものはないと断言する。困ったものだよ、この頃は私もよく分かりはしない」
 軽く笑って答えた勝股は、視線を小五郎に向けて小さく「されど」とつないだ。
「今でも私は殿が闘えと言えば刀をもって闘う。殿が死ねと言うならば、死す。武士とはそういうものだ」
「そうですね。きっと私も……同じでしょう」

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 君臣の絆とは切っても切れはしない。それを切り藩も武士もない世を創ることを維新の大業とした小五郎自身ですら、藩侯が「死せ」と言うならばその場で迷いなくこの命を差し出す。
 だが今闘っているものはどうだろうか。藩侯の命令により蝦夷に渡り闘っているものはいるだろう。榎本についてきたものは命令ではなく、何のために新政府軍と戦うのか。
 この蝦夷の自治をかけてか。土方のように死に場所を求めるものもいれば、幕臣や会津藩、仙台藩といった藩士は意地で闘っているものも多くいる。
 小五郎はこの戦に大義も一貫性もないのではないかと思った。
「この戦はどうすれば終わるのでしょう」
「……さてさて。それもまた難しい。兵士が一人もいなくなれば闘えなくなるだろうが、その前にこの手の話は政治だね」
「政治……ですか」
「戦の始めも終わりも結果的には政治家が決める。勝ち負けも同様」
 そう戦争とは政治の一つだ。かの鳥羽伏見の戦いが前に長州藩士を京都に送ることを決したとき、兵士を前に大義を語り士気を鼓舞した小五郎は「兵士」ではなくまごうことなく「政治家」だった。
「戦争は政治家が始め、政治家が終わらせる」
 海と似た色をした空を見据え、小五郎は息を吐く。
「私はもうこれ以上、死んでほしくはない」
 小五郎が願おうともこの戦争は続くだろう。征討軍が箱館に迫り、五稜郭を包囲し、それでも降伏を望まず兵士は闘う。
 終わりを決めるのは榎本であって、榎本ではない。例え榎本に恭順の意思があろうとも、多くの兵士が闘いを望むならば

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政治家の榎本がその力を制御することは難しい。
「……終わらせなければ」
 小さく呟いた小五郎の声は勝股には届かなかったようだ。
 鐘が鳴りやむと同時に小五郎の胸に何か確たるものが落ちた。
 戦を終わらせるのは政治家。それも権力ある政治家の決裁が重きをなす。小五郎は半年前まではその力を確かに持っていたが、自ら手放して蝦夷に渡った。
 今の自分はただの箱館病院に住まう医者見習いでしかない。
 その今の自分にできることと、昔の自分にできたこと。
 不思議なことに「権力」に対して未練は欠片一つない。
 すべてを捨てた自分は自らの思いのままに動くことができる。ようやく小五郎は自由を手にした。
(けれど……私はもう見たくはない…から)
 前途ある若者が死んでいく姿を見たくはないから。
 今の小五郎は「戦争」に対してできることは、この手で薬を煎じ止血に努めることくらいだ。
 だが木戸孝允は違う。
「……」
 その考えに至ったとき、小五郎は身の内から震えが沸き上がり、その場に崩れた。
「小五郎さん」
 慌てた勝股が支えたが、膝が地につき体もゆらゆらと揺れている。震えは止まらない。
(私は……考えてはならない。思ってはならない)
 政治家ではない私は、目の前にある傷ついた人と向き合うことのみ。医者見習いにできることなど限りがある。
(けれど、本当にそれでよいのだろうか)

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 だが例え政治家として自分が立とうとも、見る限り今の箱館側に和睦の意思はない。政治家たる自分の名が役に立つ時があるとするならば、それは榎本やその周囲が和睦に動くその一瞬。
 その時、自分は果して「政治家」として立つことができようか。今のこの「小五郎」という身を投げ出して、半年前と同じ立場に立てようか。
(私は……いかがすればよい)
 小五郎は、
 今、迷いが生じ、そしてその迷いが怖くてならなかった。
「この戦を終わらせたい」
 その思いに揺らぎはないというに、どうしようもないくらいに迷う。
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逝く者、いくもの 25-12

逝く者、いくもの 25章