逝く者、いくもの

6章

「小五郎くん、頼みがあるのだが、いいかい」
 季節は弥生の初旬に移っている。
 といっても蝦夷には未だ桜の便りは訪れない。地元の人間の話によると、花が咲くのは卯月に入る直前らしい。
 今日もいつも通りに薬を煎じていた小五郎のもとに、朝から急患が立て続けの高松が小走りで近寄ってきた。
「はい」
 顔を上げると、実にすまなそうに二通の書状を差し出され、
「この通り、急患だらけで手が足りないんだ。本当なら患者の小五郎くんに頼めることじゃないんだがね。すまないがこの書状。御役所の永井さまに届けてくれないか」
「……永井……さま。箱館奉行の」
「それと、もう一通は少しばかり遠出になると思うが兄の古屋佐久左衛門に。五稜郭に来ていると思うから。ついでに可愛い弟が待っているから病院の方に寄ってくれ、と伝えてほしいんだが」
 衝鋒隊総督で歩兵頭の古屋佐久左衛門は、高松の実兄である。長崎で宣教師ヘボン(ヘボン式ローマ字の考案者)に英語を学び、後に神奈川奉行所通訳となっている。
 江戸城開城の際は、陸軍にあり歩兵差図役頭取という地位にいた。見廻組の今井信朗などと江戸を脱出し各地を転戦。その際、古屋が結成した組織が衝鋒隊で、現在は五稜郭の北鷲の木、森地帯の守備にあたっている。
「散歩がてらという距離ではないが……頼まれてくれるかい」
 小五郎は一瞬だが躊躇した。

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 箱館奉行の永井尚志とは直接的には関わりを持ってはいないが、あの第一次長州征討において、長州保守派に「桂小五郎と高杉晋作の首を差し出せ」、と迫った男でもあると聞く。
 その当時、出石に潜伏していた小五郎だが、似顔絵で全国指名手配までかけられた。また永井は征伐において、長州藩侯の捕縛を主張した強硬派でもあった。
 出来うるならば顔も合わせたくはない男だ。
 当時「朝敵」の汚名を被った長州藩。
 その責任を名指しされるほどに自分は大物ではないと思うのだが、あの折、新選組や見廻組などの探索は非情を極めた。潜伏期間に落ち着いて息を吸ったことは一度としてない。
 だが長州征伐は幕府内部より崩れ去り、最終的には瓦解した。薩摩藩との協調がうまくいかなかったといわれる。
 あの折に、長州藩との外交の任にあった永井尚志。保守と進歩派の中間を行くような男で人材を見る目はある、と評価は高い。
 されど、だ。どれほどに有能で、優れた人物であろうとも、この手が、長州藩士のこの血が騒ぐ。
「……御役所の永井さまの部下の方にお渡しすればよろしいですか。私などが訪ねていっても、きっと誰も取り合ってくれないと思いますので」
「そんなことはない。この高松からの使いと言えば会ってくれるよ。それに、小五郎くんは少し体力をつけた方がいい。毎日このあたりの散歩ではつまらんだろう。少し遠出になるが、歩いていってみなさい。雪解けの花も咲いている。空気も心地よいよ」
「……わかりました」
「春の良い空気をいっぱい吸って五稜郭までいっておいで。……そういえば、一度もいったことがなかったな」

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 高松には日ごろよりどれほど世話になっているか知れない。
 またここで断っては、何かしらいぶかしむだろう、という思いから小五郎は書状を受け取り、また歩きやすい軽装に着替えた。
 箱館は今は季節性の風邪が大流行で、とても病院から人を出せない。動けるようになった自分が使いには一番に適度だろう。現に先月だが土方のもとに薬を届けに行ったこともある。
(…………)
 五稜郭の完成と同時に、箱館奉行所は新設されて敷地内に機能を移したが、榎本が蝦夷共和国を宣言して後、奉行所の機能はもとの元町の「御役所」に戻され、奉行の永井はそこにいる。奉行並の中島三郎助も同様にだ。
 中島は、かつては夜を徹して教えを請うた恩師だが、今となっては小五郎の素性を知る数少ない一人となってしまった。ましてやその子供の恒太郎、英次郎は、時折記憶を探るかのように小五郎に視線を向けてくる。まだ幼かった時分に遊んでくれた人間の面影を……二人は覚えているのだろうか。あれから十数年の月日が流れていた。
 高松に言われた通りゆっくりゆっくりと歩く。
 高台から遠くに見える五稜郭は、悠然とそびえ、同時に妙に哀しく映った。
 アレがサムライたちの最後の夢のあとになるのだろうか。

「それではこれを永井さまに」
 かなり緊張して御役所を訪ねたが、ちょうど永井は所用で出ているとのことで、書状は部下に託してすぐに外に出た。中島も永井に同道しているようで、顔を合わせずに済み、小五郎はあからさまにホッとしてしまった。

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 後は高松の実兄にあたる衝鋒隊を率いる古屋佐久左衛門に伝言と書状を託すだけだ。
 ここから五稜郭までは約ニ里とある。早足だと半時ほどだが、小五郎は高松に言われた通りゆっくりと歩くことにした。数年前までは萩から京都、江戸などを軽く往復する健脚が自慢だったが、ここ数年でずいぶんと体力が落ちていることは認識している。ましてや初期症状で済んだが労咳を患った身だ。
 海風を体に浴びながら街を見渡せば、海沿いには多くの船が停泊していた。異国船も数隻見える。また小舟がかなり沖合に出ており、何やら叫んでいる漁師たちの声もかすかに耳に届く。
 海鳥が飛ぶ。海女たちの陽気な歌声も響く。今はたこやウニ漁の最盛期だ。
 箱館は活気に満ち溢れている。
 少し歩いていくと異国橋が見えてきた。もとは栄国橋といったが、箱館港が外国向けに開港されて以来、この橋の近くの築島が外国人居留地となり異人が多く住まうようになった。そのため改名されたらしい。
 異国橋を渡りつつ、右手に見える武蔵野楼の豪奢な作りに息をのむ。三回建ての空中庭園と呼ばれるこの楼閣は、江戸より北にある最も豪華な妓楼として知られていた。それもうなずける佇まいだ。小五郎が世話になっている箱館病院の北側にも遊郭があるが、それとは比べようもない規模と豪華さを誇る。
 窓よりちょいと外を覗いている遊女の垢ぬけた顔は、確かに蝦夷地では珍しいかもしれない。京都の三本木で色男として名をはせた小五郎だが、白粉を顔面に施した遊女とかち合うと妙に緊張をして、早足に通り抜けてしまった。昔から遊女や芸妓に袖を引かれることが多い小五郎だが、苦手なのだ。

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 それから海を横に見ながらしばらく歩くと、榎本たちが作った一本木関門の関所が見えてくる。ここを通るものは通行料を払わないとならない仕組みだ。
 高松から渡された身分と用向きを知らせる札を見せると、難なく門を通され、小五郎はほっと息をつく。噂では財政難により関所を設置したらしいが、庶民を敵にする政策は古今東西恨みを買うだけでうまくいった試しはない。
 榎本は、大阪城のご金蔵から十何万両もの金子を得て、この蝦夷での軍資金にしたという噂も耳にしていたが、関所を作るほどに貧窮している状態では、軍資金も尽きたのだろうか。これも噂だが江差沖で開陽と沈んだという話も聞いていた。箱館病院で起居する小五郎にはさして興味はなかったが、財政難の政権が行きつく先は見えるような気がした。
 一本木の関所から五稜郭まではまだ半里ほどあるが、まっすぐ進むのみだ。元の奉行所の楼閣も遠くに見えてくる。海沿いから離れていく道を歩いていくと道が二手に分かれる。左を行けば亀田という元は番所があった街に行きつく。右に行けば五稜郭だ。
 小五郎は歩きながら、見慣れぬ白い花を見つけると立ち止まった。しばらく見ていると、行商で通りかかった男が「早咲きのツバメオモトだよ」と教えてくれた。所々に早咲きの桜もうっすらと確認でき、花好きの自分の心が少しだけ浮き立つのを感じた。
 もうすぐ春だ。
 それは同時に戦の開始を意味する。
 心は氷が落ちたかのようにサーっと冷えてしまい、無意識に小五郎は歩調を速めた。
 戦に身を投じ、ただ死を得るために蝦夷地にあるのではないか。この平穏は嵐の前の静けさにほかならない、と言い聞かす。

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 千代ヶ岡台場を横目に見ながらも一心不乱に五稜郭に足を急がした。かなり早足になっていたようだ。五稜郭の門前にたどり着いたときは肩で息をしており、門衛に満足に名前を名乗れず、木札を見せて通してもらった。
 目的は高松の実兄の古屋に会うことだ。どうにか呼吸を整えて門衛に古屋について尋ねると、敷地内で修練中の伝習隊を見ているとのことで、案内されるままに小五郎は歩いた。
「おや小五郎殿じゃないかい」
 軍服姿の大鳥圭介が手を振ってくる。その横にいる身の丈のある青年は、本多幸七郎だ。
 ちょうど修練が終わったらしく、大鳥はにこにこと笑って近づいてきた。変わらぬ人を和ませるやさしい笑い方だ。
「ちょうどいい。ちょいと見ていかないかい。これから土方くんと本多が一本、手合わせをやるんだよ」
「……大鳥さん。私は遠慮すると」
 本多はかなり困った顔をしている。
「たまには見世物がないと兵たちの士気が落ちるだろう。ほら、みんな楽しみにしているんだから」
 本多はわずかに苦笑をし、小五郎には軽く会釈をしてきた。
「俺も見世物には反対だが、アンタの言い分にも一理はある」
 そして此方も軍服姿の陸軍奉行並の土方歳三が、ゆっくりと歩いてくる。だがどことなく機嫌が良くないのがその身から発する暗き風情が証明していた。
「それよりも小五郎殿。こんなところで何しているんだ」
 軍服の上に陣羽織を羽織り、小五郎のもとに寄ってきた土方に小五郎は見惚れた。前から思っていたことだが、男前の土方にはスラリとした軍服は実によく似合う。

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「……アンタには……」
 声を潜ませ心配そうな顔をしている。
 箱館政権の総本山は、確かに自分には不釣り合いだ。
「高松先生より使いを頼まれただけです。……あとは衝鋒隊の古屋さまに伝言を……古屋さまはどちらにいますか」
「お使いってな。アンタ……患者だろうが。労咳大丈夫なのか」
「えぇ。走っても大丈夫だと高松先生よりお墨付きですよ」
 あとは体力をつけ免疫を高めれば、と高松はいうが、同時に厳しい顔で「その死にたがりを治さん限りは退院はさせない」と言われてもいる。
 もう少し体の自由が効くようになれば、自分の意思で病院を後にすることもできるが、高松の恩義をあだで返すことをしてはならない、と小五郎は思っていた。
「軽く剣を握れるほどに大丈夫か」
「おそらくは」
「じゃあちょうどいい。腕が鈍っているだろうが、座興だ。一本、どうだ」
「……歳どの。私は……何年、まともに剣を握っていないと思いますか。それに」
「大丈夫だ。ここにはアンタを知る人間はいない。……鳥が知らぬならまず大丈夫だろう。俺が率いた新選組も、京都以来の人間などまったくいなくなってしまったしな」
「私は目立ってはならない身です」
「アンタを勘繰る人間などいないさ。怪しまれても他人の空似で終わるぞ。それに本多くんは強い。旗本の当主として幼き時から武芸一般しごかれている。興味ないか、小五郎殿。自分のその身はどれくらい回復したのか。どれほど動けるか」

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 土方に竹刀を握らされ、小五郎の心臓がドクリと跳ねた。
 右手にはしっくりと竹刀の錘がなじむ。十年ほど前、この手に毎日何度も握った竹刀。一時は、剣の道で生きていこうと小五郎は誓った。この剣でたいせつな人を守り、この剣をもって思いを体現する。
「大鳥さん、座興だ。俺じゃなく、こちらの小五郎殿が相手だ」
 ほら、と土方は自らの額より白き鉢巻をとり渡してくる。伸びすぎた前髪をそれであげ、もう一つ渡された紐で着物の袖をたすき掛けとした。
 竹刀を持ったその時から、小五郎の体は操られるかのように、あるいは魅せられるかのように。高鳴り、高揚し、望んでいる。
「いいぜ、昔のままの顔だ。剣士の顔だ。……どれだけ良くなったか見せてくれ。無理はするなよ」
 楽しげな土方の声音に導かれ、十数年も昔の練兵館の光景が戻ってくる。目を閉ざせば竹刀の打ちあいの音。人の呼吸。師範の叱責の声。
『桂、詰めが甘いぞ、おまえは』
 師範代のニッと笑ったその顔。
 額より流れる無数の汗でにじむ目を拭いもせずに、小五郎はただ竹刀を持って相手に対する。
 忘れていた感覚が一息ごとに戻ってくる。
 練兵館の活気に満ちた猛稽古の中で、ふと格子戸より食い入るような視線に気づき、興味をそそられて振り返ると、一人の青年と目があった。それが土方との出会いだったのだ。
「土方くん。小五郎殿は患者だ。無理はさせてはいけないよ」
 医学の心得がある大鳥は、この突然の思いつきともいえる土方の提案を首を振って止めた。

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 だが、土方は薄く笑い、
「本人はやる気だ。珍しいことに、な。それに……俺より道場剣法なら小五郎殿の方がずっと強い。……ただ無理はさせない」
 一本のみ。息が乱れ、顔色が悪くなれば止める、という条件を付けた。これには小五郎も頷くしかない。
 自分という男の剣を、小五郎自身すぐには思い返せない中、今、ドクリドクリと体の中から剣にかける熱が噴出してきそうな感覚だった。忘れていたのではなく、思い出さずにいただけだ。政務役の周布に剣は必要ない、と諭されたあの時から、心からもこの手からも剣を遠ざけ、封印して、今日まで来た。
 おそらく土方は、遠き日の小五郎の剣を見たいと思ったのかもしれない。それはこの手もこの体も望んでいる。
 不意に、ほんのわずかだが自嘲の笑みが漏れてしまった。
 ……鉛のように鈍ったと思われるこの腕を……見たいのか。
 固辞しようと思えばできたかも知れないが、戦場を駆けることを望む小五郎には、今、自分にどれだけの腕と体力が戻っているのかを確かめる必要性があった。
「……大丈夫ですか」
 本多の心配そうな顔に、あえてにこりと笑ってみる。
 周りを数十人の伝習隊兵士や彰義隊。守衛隊の新選組隊士が囲んでいる。皆、興味津津といった顔だ。京都で「鬼」と称された新選組副長があえて立ちあいを譲ったのだ。自分に対する好奇は、誰もの目に浮かび上がっている。
 久々の感覚に目まいが起きるほど高鳴る胸。自然と呼吸は整い、間合いを取る。剣士としての血が、逆流するかのように熱く、身を焦がして、自らを浮き立たせた。
 ……目を閉じてみる。

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 この手にあるのは竹刀。決して剣ではない。……自らの理性と暴走を飲み込むあの「剣」ではないのだ。
 剣は上段の構え。その間合いは静けさと無を持って境地とす。
 忘れていた呼吸の取り方。足の位置。体重の取り方。そしてこの目の先に在るは、敵。
「…………」
 はじめの一撃に容赦はなかった。
 寸前で避け、竹刀をあわせて飛びのき、相手を見据える。
 大鳥の副官と言われる物腰が優雅で沈着冷静な青年が、今、その目に何一つの感情をにじませず「無」の境地で竹刀を繰り出してきた。
 できる人間だ。竹刀を交えればすぐにわかる。一太刀で修練をしていないこの手はジーンと痛んだ。それは幼き頃より剣を叩きこまれてきている者のみが有する剣技。染みついている。剣が手と一体となっている感すら見受けられる。
 隙が全くない。遊びで隙も作らず、悠然と構える。竹刀が空を切る音すらも響かず、静かすぎる剣といえた。だが、そこに妙な狂気を見いだし、小五郎は息をのんだ。
 あの幕末の京都で、どれほどの人斬りに襲われたか知れない小五郎である。
 背後にある土方もその代表的な男であったが、刺客にも剣士にもある一定の殺気と暗い情念というものがあった。
 だがこの青年の剣は澄み渡る中にひとつの哀しき狂いがある。
 刺客でも剣士でもない。信念を持って剣を握るのでもない。まるで、と胸によぎったのは、新選組一番隊組長沖田総司の静謐なまでの無邪気な剣だった。
 小五郎は息を整える。

逝く者、いくもの 6-10

 スッと中段に構える本多を見据えた。
(そんな……心を殺した剣をとる人間は……)
 剣により悲しみ、剣によって狂わされた人間だけだ。
 かつて剣の狂気に飲み込まれそうになった小五郎にはわかる。
 吸いつくように剣が手を動かし、自らの意思は呑まれ、剣が手より離れはしない男を、過去何度見ただろうか。
「……あなたは剣を握ってはならない」
 一際力を入れ竹刀を打ち返し、一瞬ひるんだ隙を見逃さず、小五郎はその竹刀を本多の首筋の一寸前にピタリと当てた。
 瞬間、ようやく現実に戻るかのような、その瞳に現を映した本多は、「まいりました」と一言だけつぶやく。
「本多さん……あなたはなぜ……剣を……」
 小五郎は竹刀をおさめると、その両手にズキリとした痛みがよぎった。数年、剣術から遠ざかっていたゆえに当然ともいえる。本多の剣は、今の小五郎が受け止めるには重い。あと二、三太刀受けたならば、おそらく両手共に動かなくなっていたに違いない。周囲からは拍手がいっせいに打ち鳴った。その中で本多は苦笑する。
「剣を取る時、無心たることを。自らすべて抑え込む。……私は心が弱いですから」
 必死に自らを抑えつけた結果、まるで心のない動く人形のような剣士を生み出してしまったというところか。
 固唾をのんで見守っていた大鳥が、懐より手ぬぐいを取り出し、ヒョイヒョイと本多に近寄ると、ちょいと背伸びをして手ぬぐいを本多の額にあてている。
 身の丈五尺に届かない大鳥と、ざっと六尺に僅かに足りない身の丈のある本多では大人と子供といった風体に見えなくもない。

逝く者、いくもの 6-11

 大鳥はいつものようににっこりと笑う。
 汗が流れ出ずる本多は、その手ぬぐいで汗をぬぐい、大鳥をまっすぐ見て、軽く会釈をとった。一瞬、大鳥が心配そうな顔に見えたのは、おそらく小五郎と立ちあった際、本多が見せる無心と狂気を感じ取っていたからだろうか。
 大鳥に声をかけようと思ったが、その前に多くの兵士が小五郎の周りを囲んでいた。
「いや、たいしたものだ。本多隊長に勝つなんてな」
「それで病身なのか。もったいないな。伝習隊に来ないか」
 などと囃したてられ、背などもポンポンと叩かれる。
 前のめりになり、ガクリと膝に力が入らなくなった時、そこでようやく小五郎は足が震えていることに気づく。
 どうやら気力だけで持っていたようだ。緊張感がなくなったと同時に、その場に崩れ落ちてしまった。
「久しぶりで……やはり体がついていきません」
 ははは、と笑うと、若い兵士が「だらしないな」と手を差しのべてくれる。
「いえ。しばらく立てそうにないです」
「本多隊長と立ち合ったんだからな。それも当然だよな」
「……すごい早い太刀打ちだ。いやすごい」
 目を輝かせて自分を称える兵士たちに、妙な懐かしさが胸によぎった。
 かつての練兵館の下済み時代。師範代の斎藤歓之助の一瞬の打ちあいで手に重く衝撃を与えられ、一撃必殺の突きに壁際まで飛ばされることしばしば。
 痛みの中で憧れたものだ。向かい合い、唇を噛んで、それでも逃げずに向かったのは、いつかは追いつきたいと願ったから。

逝く者、いくもの 6-12

 あの頃の自分は、きっと若き兵士たちと一緒で目を輝かせていたのではなかろうか。
「大丈夫か」
 土方が懐紙で、小五郎の額の汗をぬぐう。
 本多と大鳥ものぞいてきた。すでに本多は息が整い、汗も引いている。普段の沈着冷静な青年士官の顔に戻っていたが、小五郎の方は起き上がれず、どうもばつが悪い。
「小五郎殿。……アンタ、速さが落ちたな」
 土方に担がれ、ようやく立ち上がった時、小五郎はなんとか立てたが、まだ膝が笑っている。とんだ体たらくだ、と笑いが漏れた。
「何年、剣を持っていないと思うのですか。昔のようにはとても動けない」
「だが変わらない。剣は上段の構え、身は軽さと速さで補い、一撃の剣は何よりも重い。……久々に俺もやりたいな」
「……そんな体力は、残っていませんよ。歳どの、申し訳ないが、水を。口の中が乾いてしまいましたよ」
「そうか。大野。竹筒あるだろう」
「……はい、土方先生」
 一人の青年が進み出、小五郎に竹筒を渡した。受け取り、ありがとうございます、と口に刻もうとして、小五郎の口は止まる。
 思わず食い入るようにして、その青年を見据えた。
 相手も同様に何か記憶を探るかのように、記憶に当てはめるようにジーっと見据えてくる。人を突き刺すかのような、だがどこまでもまっすぐに見つめてくる瞳に、記憶が逆流した。
「申し訳ないが、どこかでお会いしたことがあったような気がするのだが。お名前をできればお伺いしたく」

逝く者、いくもの 6-13

「……和田小五郎と申します」
 できるだけ穏やかに、何一つ怪訝に思われぬように。
「……昔、あなたに似た人と会ったことがあると思うのだが、どうも俺は人の顔はよく覚えられない。人違いなのかどうかもわからない。失礼した」
「いいえ。私は、昔からずっと江戸でしたが。あなた……は」
「失礼した。俺は大野右仲。今は陸軍奉行添役だが、俺も昔は江戸の昌平坂で学んでいた。……江戸でお会いしたかもしれない。唐津藩士だ」
 小五郎はそこでズキリと胸が痛み、倒れそうになるのを、土方が怪訝な顔で見据え、肩を支えてくれる。
 大野右仲。名前よりも唐津藩士ということが、ずいぶん前の記憶をよみがえらせる要因となった。
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逝く者、いくもの 6-14

逝く者、いくもの 6章

  • 【初出】 2010年5月18日
  • 【改定版】 2011年6月15日   【修正版】 2012年12月21日(金)   【第二次改訂版】 2017年1月25日(水)
  • 【備考】―新政府(長閥中心)登場人物紹介
  • 桂と土方が友人設定。