逝く者、いくもの

17章

 数日の間、木古内方面は小競り合いがある程度で、不気味なほどの静けさが両陣営に広がっている。
 木古内の陣営は額兵隊の星恂太郎に任され、大鳥に後を託されていた本多は、五稜郭よりの命令でいったん伝習隊を率いて茂辺地に引くことになった。厚沢部の間道より峠を越えてけもの道程度だが茂辺地に至る道がある。館城超えの通路であるが、箱館側がこの館城を放棄している以上、江差に駐留する征討軍がこの道を選ぶ可能性はありえた。 されど道なき道と言える。確たる方位を掴んでいようとも迷う。ましてや熊が非常に多く生息していることから、征討軍が危険を考慮しても進軍してくるか。五分の可能性とも言えた。
『一緒に参りませんか』
 本多は小五郎の身の上を気にしてか申し出てくれたが、それには丁重に礼を言いつつも、首を横に振った。左腕に銃弾がかすり刃をも受けた本多のことも心配であったが、 木古内には今なお多くの傷ついた兵がいる。医者も医薬品も足りてはいないのが現状だった。簡単な傷の手当てしかできないが、それでも出来ることがある。差し当たっては戦死した人の墓を造らねばならない。 腐敗が始まる前にきちんと弔ってやりたい。もしもこの地を征討軍が制圧したならば、箱館側の兵士の遺骸は野ざらしに晒されるだろう。それが戦というものだとわかってはいるが、あまりにやるせない。小五郎は最前線に残ることを決めた。
 夜になると一人の少年兵が笛を吹く。その物悲しい調べを誰もが静かに聞き入った。涙するものもいる。唇を噛むものもいる。

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子守唄代わりにして眠るものもいる。
 小五郎はと言うと、月を見上げるのだ。わずかに欠けた月の仄かな灯りに目を細め、ツーっと落ちる涙をぬぐいもしない。
 未開の原野において勃発した戦は、あの禁門の政変とも四境戦争とも様相を異にしていた。違和感が胸にくすぐる。その理由を考え、ようやく今、分かったような気がした。禁門の政変の時は一軍を率いて市中に出たが、ほどなく藩邸に戻った。四境戦争に際しては政務担当者として山口にいた。戦争の最前線にどっぷりと浸るのは初めてなのだ。
「医者さん」
 額兵隊総督星恂太郎は気軽く小五郎を呼ぶ。
 星はきちんと小五郎が臨時の派遣であり、正式な医者ではなく見習いということも知っている。だが、最前線においては医者も見習いも変わらない、というのが彼の考えと言えた。
「戦中での月は、妙に里を思いだすよ。違うかい」
 小五郎は微苦笑を浮かばせ、否定も肯定もしない。
 月灯りに額兵隊の鮮烈な赤の軍服がよく映える。この額兵隊の軍服は実に洒落ている。赤と黒のリバーシブルで、平時は赤、戦闘においては黒と使い分けている。
「俺が焼きついている故郷の月は、なんともいえんほどに屈辱の月だよ。額兵隊を率いて戦場に立ったあの日。藩論は突如朝廷への恭順を決め、出陣した俺たちを藩侯が追ってきた。あの日の月は今日のように……憎らしいまでに美しかった」
 額兵隊は仙台藩が西洋様式に改めた軍隊で、楽兵隊という楽隊より編成されている。率いる星恂太郎という男からして一風変わった遍歴を要していた。
 星は神官の息子であったが、幼少より「剣術狂い」と言われる

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ほどに武芸に熱中したため、将来を危ぶんだ父親により藩の台所方に養子に出されたが、包丁は合わんと戻ってくる始末。成人して後は、過激な攘夷派となり、開国論者の家老但木土佐の暗殺をはかるが、その土佐に仙台一国しか知らぬ井の中の蛙と一喝され、脱藩し江戸に出る。 銃隊編成訓練を江戸で受け、横浜では商人の下で英語を学んだ。そんな折、鳥羽伏見の一戦となり、仙台藩は直ちに各隊を西洋式に改め編成することを決めた。その隊長には星を、と但木が決め、星を呼び寄せたといういきさつがある。かつては自らを暗殺せしめに訪ねてきた星を、 但木は脱藩時代には藩士を通して密かに援助した。星もその但木の恩に報いるため粉骨砕身額兵隊にて戦いぬく、という覚悟を胸に刻んでいた。
「やれ仙台藩はドン五里と言われていてな。俺はこの屈辱を額兵隊をもって晴らすことばかりを考えていた」
 奥羽越列藩同盟を軸とした藩は、西軍(征討軍)の本拠地となる白河を奪還し、ここを守り会津方面への侵攻を食い止めるという方針となった。 その戦において、仙台藩兵の評価は散々なものだった。西軍は「仙台は大砲を一発撃ったら、五里下がる」と鼻で笑ったというほど、仙台兵は惰弱だったという。
「汚名は返上するためにある」
 それが星の一貫した主義であり、また但木を追いやり遠藤ら恭順派が藩の実権を握り、突如恭順に藩論をまとめたのも納得がいかない。一旦は藩侯に逆らえず仙台まで下がったが武装解除を一切拒んだ。そのため今度は西軍の目を恐れた仙台藩に追討される危機となり、石巻に駐留していた榎本艦隊に合流し箱館に渡ることを決めた。故郷仙台においても額兵隊の存在はすでに無用の長物であり、明確に邪魔でしかなかったのだ。

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「私もその通りだと思います」
 小五郎は星の横顔を見つつ小さく言った。
 かの八月十八日の政変を期に、会津・薩摩の連合に追いやられた長州藩にも「汚名」が常に付きまとった。思いもよらぬ汚名であり、身を焼きつくすほどの屈辱と言えた。この汚名をそそぐために藩は狂ったかのように暴走したとも言える。
 屈辱というのは得てして人を狂気せしめるいちばんの糧なのかもしれない。京都留守居役の一人として長州の屈辱と熱をその身に浴びた小五郎だったが、どこか他人事のような目で火の粉飛ぶ街を見ていたものだ。この身にも言いようのない屈辱があるというのに、小五郎は自分という男はどこまでも冷静よ、と自嘲する。時代を転換せしめる狂人にはどうしてもなりえない。熱く逸る身を、もう一人の自分がどこかで抑え、傍観せしめる。理性を超越する瞬間は一度としてなく、小五郎は駆けずり回って狂人を抑えた。いつも「止める」のが役割だった。
「……医者さん」
 星の整った顔が小五郎をジッと見つめてくる。
「死になさるなよ」
 何を感じて星はそんな言葉を口にしたのか小五郎には分からない。是とも否とも言えずに曖昧な微笑をつくった時、笛の音がやんだ。
「俺は薩長が憎い。恭順した藩が憎い。戦って一矢報いるためにここまで来た。兵はそれでいい。だけどな、どう見ても医者さんは兵じゃない。それなのにおかしなものだ。そこらの兵より医者さんの方がずっと死にたがりの顔をしている」
 土方や高松と同じことを言うものだ。数日前に初めて戦場で顔を合わせた男に見抜かれるほどに、死相というものが

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自分には張り付いているのだろうか。妙におかしくなって小五郎は笑った。星が訝る顔をしても構わずに笑った。
「こわい男だね、医者さんよ」


 翌日も木古内方面は静寂が刻まれる。両軍斥候がぶつかる程度の衝突しかなかった。
 四月十七日早朝、征討軍の松前への総攻撃の情報が入ったが、星は兵を動かしはしない。この木古内を守護することが星の任務であり、また繰り出そうとも松前は海と陸の両面よりやられれば時間の問題だろう。むしろ引きあげてくる兵を受け入れる体制を整えねばならない。星は萩山に登った。ここからは木古内の街がよく見渡せる。遠くに映る海はどこまでも静かに波を打つ。
 ここに征討軍の軍艦が集結し、一斉射撃を為すのはいつのことだろう。おそらくそう遠くはないことで、その際に俺も死ぬ、と星は笑う。
 松前を攻撃する砲撃の音は、さすがに十里以上(約五〇キロメートル)も離れた地点の爆音など聞こえるはずもない。それでも耳を澄ませば聞こえるのではないか、とふと星が思うほどに今の木古内は静けさが包み込んでいた。
 そこに松前よりの急使が飛び込んできた。松前方面より走りくる馬を目にした途端、星は萩山を飛び跳ねるようにして下る。背丈四尺八寸ちょいほどの星が山から駆け下る姿はまるで子供が山遊びをしているように見えなくもない。大鳥圭介という男と負けず劣らずのちびっこだが、大鳥は背丈については何一つ気にするところはないが、この負けん気の強い星は「童顔とちびっこ」という言葉には大いに反応する。

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それは郷里の後輩の山田市之允に似通っていて、妙な懐かしさを小五郎は味わい、次に迫りくるのはその後輩がこの木古内より約十一里先の江差にあるという事実の切なさと言えた。
「折戸浜台場が陥落」
 守護していた遊撃隊をはじめとする部隊は、松前城守護兵と合わせてジリジリと後退している。まずは吉岡まで退却するということだ。
 星は直ちに木古内の陣を固めるとともに一個小隊を松前に向け撤収兵と合流させ、この木古内までの引き上げに関してけが人などの搬送にあたることとした。
「吉岡ではもたねぇよ。福島に退くことになる。怪我人の搬送が先だ。木古内までくれば、艦隊に箱館病院まで運んでもらう。あと医者さんたち数人もすまねぇがいってくれないか」
 軍医二人と小五郎が一個小隊に守られながら立つことになった。自ら志願した小五郎に星は複雑な顔をする。「死にたがり屋だからな」と暗にひきとめようとしていたが、医者の数が足りないのは事実であり、軍医をすべて出すわけにもいかない。
「俺は怪我をしたら、医者さんにしか看てもらわねぇよ」
 必ず生きて戻れ、という星の気持ちに、小五郎は軽く頷くことしかできなかった。
「遊撃隊と合流できれば百万の味方だ。隊を率いる伊庭八郎は古今無双の剣客さ」
「……伊庭……」
 その名に小五郎の鼓動がドクリと撃った。
「箱根の山で隻腕になりつつも奮戦したという戦士でな。なんとも江戸っ子の典型さ。気風の良い男前だが、ぞっとするほどに色白で、とてもとても剣術家とは思えんよ」

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「伊庭の小天狗が松前にいるのですか」
 いつから、と小五郎は言いかけて、口をつぐんだ。
 土方が小五郎の昔の知人関係が蝦夷に来ているか念入りに調べてくれたことがある。その中に伊庭の名はなかった。あえて外したのか。一時、まだ練兵館の塾頭であるころの小五郎は、土方とよく酒を飲み、遊びをした。その頃、知り合ったのが江戸四大道場心形刀流宗家「練武館」の嫡子伊庭八郎で、そのころの伊庭は剣術を学び始めたばかりの十五歳だった。
 伊庭は小五郎のことを、練兵館の「和田小五郎」としか知らない。小五郎殿、と邪気なく笑って慕ってくれる伊庭が可愛くて、弟のように思っていた時期もあった。
「知り合いならさらに好都合。死傷者がかなり出ている。頼む」
 額兵隊の一個小隊と共に、木古内より松前に向けて進軍する。そこに勇ましさはない。静寂なまでの静けさと、敗北という点が彩る恐怖が歴戦の武者の顔にも張り付いていた。
 木古内より松前までの距離はおよそ十里ほどである。木古内の手前の福島まで軍が引いていると考えられた。木古内から福島に至る際、知内はちょうど中継点に位置する。知内で一度休憩を取った。
 若いころは山口と江戸、京都の往復が多かった小五郎は、よく歩いたものだ。自らの健脚には自信もあったが、労咳にあい寝たきり生活だったことが災いしてか、息が上がる。知内に着いたころには、休憩所に倒れこんでしまうありさまだった。食事をとり、水を十二分に補給して、また青天の下を歩く。潮風の強さがわずかに肌寒い。福島にたどり着いたのは申の下刻(午後五時)であった。
 散り散りにだが松前逗留軍が引きあげてきている。

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無傷のものがないに等しく、ある者は木の棒を杖代わりにして歩き、自力で歩けぬものは仲間の肩に担がれる形で歩いている。松前より命からがら退却したのだろう。傷の手当てもしていない。その傷やこびりついている血がどす黒くなってもいた。
 申し合わせたかのように誰もが福島大神宮に向かっている。ここには砲台が設えられ、陣としての機能もある。また崖上にあることから攻めるに堅く守るに易い。
 医療品がわずかしかない中、医者たちは賢明に動いた。まずは井戸水を確保し、包帯の予備がないという現状のため、兵士たちの単の裏地などを裂き血止めに使う。頭で考えるよりもまずは体が動いているという現状と言えた。 小五郎には簡単な手当てしかできないが、それでも駆け付けた額兵隊の隊士と共に水を汲む。その傷より高熱を発する兵士に解熱剤を飲ませた。進軍の際、山奥で見つけた鬼の矢柄などの薬草も煎じ、鎮痛剤に使う。
 小五郎の薬草の知識はおよそ幼年の時に父に教えられたものがほとんどだ。桂家に養継嗣として入って以来は、武家の子として育てられたため、実家のものは小五郎に「医学」に関しては何一つ教えはしなかった。そのわずかな記憶が現在役に立っているというのは何と言う皮肉だろう。
 父を始め藩医和田家のものは、小五郎を「我が家とは関わり合いのない者」として扱った。父の横で薬草が煎じられるのをジッと見ている小五郎を、時に父は邪険に扱ったほどだ。だが、運命の皮肉か。 小五郎は薬について興味を持った。父の目をかいくぐり、和田家の医学書を読みあさったものである。
 それもさしたる物ではなくとも、薬草に関する記述だけはしっかり覚えており、山での薬草や毒草はきちんと見分けられ、煎じ方も心得ていたのだ。

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「君はきちんと知識を身につければ、たいした医者になる」
 軍医たちは目を輝かせて太鼓判を押してくれたが、小五郎にはどうでもよいことと言えた。ここにある自分はすべてを捨てた抜け殻でしかなく、ただ死に場所を探してたゆたっているだけのものだ。未来はない。先々など出来うる限り考えないように心がけている。未来を思えば小五郎の心は泥沼にはまる。 すべての未来に背を向けてこの北の果てに足を踏み入れたその時から、先を思ってはならぬ身の上になったのだ。
 そこに少年の一人が倒れこむようにして駆けこんできた。大量の汗が噴き出ている。まずは水を含ませると、うつろだった意識が戻り、右手を宙に差し伸べる。
 その手を取るべきか迷った小五郎に「姉上……」と小さく呟いた少年は、にこりと笑った。
 突き上げてくる感情の所以を小五郎には理解できない。胸がズキリと痛む。ポタポタと小五郎の両眼より涙が、少年の頬に落ちる。
「小五郎さん」
 医者の呼びかけに我に戻りながらも、小五郎の意識はどこか混沌とした迷路に迷い込んでしまった。
 なんのために維新が成ったのか。
 今の今まで維新とは多くの流血の結果と小五郎は当然のように受け止めてきたが、今、自分がその現場に立つと、むなしさと言いようがない怒りがこみ上げてくる。多くの仲間をなにゆえにこの手は失ったのか。この命よりも大切な幼馴染を一人で黄泉に渡らせ、何ゆえに自分は生き残ったのか。
(考えるな……考えてはいけない)
 必死に心を制御し、今は目の前の傷ついた者の手当てに神経を

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向けるが、それも長くは続かない。まるで風船がふわふわと空にたゆたうかのように、小五郎の心は今、地に足がつかなくなってしまったのだ。
「なんのために……私は……」
 未来ある少年を殺すために戦に挑んだ訳ではない。だが結果として会津の白虎隊のことも、二本松の少年隊の悲劇に語られるように少年を殺す。民草も多く罪なくして死んだ。未だ十五前後の少年が、自ら戦に駆け、戦火の中に命を散らせた。二本松の少年隊は、野津道貫をも震えあがらせるほどの特攻を見せたと聞く。
 少年たちは戦の大義を明確に把握していた訳ではあるまい。それでも戦に出た。命をかけて戦った。なにゆえか、と問おうとして、あぁと息をのむ。官軍も賊軍もない。少年たちが心に宿らせた正義とは、故郷ではないか。国を守るため、家族を守るため、それがただ一つの揺るぎのない正義であったのではなかろうか。
 夕暮れ時に浮かぶ白き月を小五郎はいつものように見つめる。萩で見た月と同様と言うのに、自分は実に遠くまで来たものだ、と思った。
 今日一人の兵が息を引き取った。近くの寺へ葬ったが、苦しみぬいたその最期に小五郎は目をそむけずにいるのが苦しくてならず、涙を流し続けていた。
(無益な戦を……)
 と、叫びたい。この戦に何の大義があるのか。新政府を樹立した薩長方の流血の延長戦ではないか。まだ血が足りないのか。西郷吉之助が言う通り、国家を粉塵と化し、その下より新たな国家が生まれてこなれば「革命」とは言えないのか。認めたくはない。これ以上の流血も戦争も、人が死すのももう見たくはない。
「考えてはならない」

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 小五郎は堅く戒める。これ以上、考えれば自分は……未来を考えねばならない。それは今の自分を全面否定すると同じではないか。
 考えるな……考えるな……。
 何度も何度も繰り返し、流れ続ける涙をその場で拭って小五郎は立ちあがる。
 姉上……と虚空に手を差しのばした少年兵は、眠っている。わずかな音でも目覚め、ガタガタ震えだすのだ。恐怖でしかない。戦というものに少年は全身全霊で恐怖を味わったのだろう。十五歳前後の年頃で、最前線に立ち、何を得たのか。心に傷を負っただけではないのか。
 小五郎が十五のころは、多少の混沌はあったにしろ世は平穏無事だった。萩の城下で剣術を学び始めたのもその頃だ。剣は凶器と悟りつつも、大切なものを守りたい一心で剣を取った。
 未来を夢見、願い、希望を胸に突き進んで行けばいい。子供には「戦争」というものは無用のものでしかないのだ。
 ならばどうすれば良いのか。この戦を終わらせ、二度と戦の凄惨さを味あわぬ国になすには……。
「いけない」
 捨ててきた過去が表に出てきそうになる。今まで鎮静していた「未来」への感情が、もう抑えがきかぬというかのように湧きだしてくる。
「このままでは私は……」
 小五郎はそれを恐れた。ただ死だけを望んでこの地を訪れた自分が、死以外のものを見つけることが戦慄するほどに怖かった。止められぬ。抑えがきかない。このままでは、自分は終われなくなる。

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「小五郎さん。水がなくなってしまってね。御苦労だけど、汲んで来てくれないかい」
 背後より飛んできた声に小五郎は「はい」とだけ頷いた。
 足がガクガクと震えている。
 それでも一歩一歩と進み、水を汲み、そして戻る。
 これほどに心も身体もボロボロになったのはいつ以来だろうか。
 あの禁門の政変の後、京都に身を潜ましてどうにか生きているときも、これほどに心は悲鳴をあげていなかった。いつものように宵の月を見つめ、涙を流しながらも、心には希望という光が常にあった。だが今はどうだ。希望もない。未来もない。縁もゆかりもない地で月を見つめ、未来を考えるなと堅く戒めるばかりだ。
 死ぬために訪れた土地で、この手は何をしているのか。箱館側の兵士の治療をして医者の如しことをして、偽善も良いところだ。本音を言えば憎くてならないのだ。すべてを壊したいほどに誰もが憎く、そして小五郎はいちばんに自分自身が憎くてならない。
(……終わりにしなくてはならない)
 このままでは自分は、もう一人の捨ててきたはずの自分に掴まってしまう。
 終わりするのは簡単だ。今より松前の陣に単身斬り込みをかければいい。四方より飛び交う銃弾が自分を殺してくれる。名も知らぬ男が刀で斬り殺してくれよう。
 それは陶酔するほどの魅惑で、今の小五郎の心を支える唯一の言葉の麻薬ともなった。
 それですべては終わる。

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 なんともあっけない。何と清清しい身の処し方だろう。
 死体はその場に討ち捨てられ、野に朽ちる。ただの名前もない一介の兵士として葬られて終わりだ。
「ここは戦場だ」
 人が簡単に死すことができる場所だ。
 望みは戦場で戦い、ただの名のない一介の兵士として死すこと。
 笑いが口元によぎる。
 望んでいた場所に今、自分があることに、ようやく小五郎は気付いた。


 ガタリとした音が聞こえた。
「小五郎さん」
 額兵隊付軍医が、扉を開き外に出たときには、そこには桶に入った水が置かれているだけだった。
 この日の宵、小五郎は福島より松前に向かった。
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逝く者、いくもの 17-9

逝く者、いくもの 17章