逝く者、いくもの

27章

 四月ニ九日の深夜。箱館病院に大鳥がやってきた。
「鳥さん」
 井戸に水汲みに出ていた小五郎はその小さな姿を見つけて驚きの声をあげた。時刻は子の刻をまわっていたので声はできるだけ落としたが、夜陰に乗じて響く。大鳥はシーッと人差し指を口元にあてて後、「やぁ」と手をあげた。
「夜分に申し訳ないね、小五郎どの。ここに重傷の患者がいるからお願いするよ」
 と大鳥が腕を掴んでいるのは本多だった。
「左腕をやられた。それでも刀を持って闘おうとするからさ。ちょうど一区切りついたから引っ張って連れて来たんだ」
 大鳥は意地でも本多の腕を離さないという顔つきだ。
 見れば本多の左腕には包帯が巻かれているが、それもどす黒くなっている。
 小五郎はすぐに二人を病院内に引きいれた。本多には隙があれば逃れようとする気配があるので、小五郎も本多の腕を掴むと、大鳥がにんまりと笑った。
 一時前までは富川などから負傷兵が運ばれ、その怪我の処置に病院内は大慌てだった。比較的軽傷のものは高龍寺に移し、重傷患者は大部屋に集め高松が怪我の処置にかかっていた。
 適塾で蘭学を学んだ高松は縫合技術を取得しており、重傷を負った患者は問答無用で縫合にかかった。小五郎は知識では知っているが、実際の縫合を見るのは箱館病院での高松が初めてだった。

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漢方が主流のこの時代は、深手を負おうと薬草や石灰での処置が施され、縫合はほとんど行われていない。長州の後輩が闇討ちにあった際に、畳針で縫合をしたと聞き、驚愕したものである。だが薬草の処置よりも縫合は確実に傷の治りを早める。西洋とはいかに医学が進んでいるのか好奇心半分驚き半分の小五郎である。
「大鳥さんか」
 高松は疲れた顔で大鳥を見て、目で院長室を合図した。
 負傷兵はほとんどが眠っている。時折、呻き声をあげるものもいるが、それは見習い医師に任せて高松は立ち上がった。もはや危急を要する患者はいないようだ。
 大鳥と小五郎は本多を引っ張って院長室に入った。
「あまりゆっくりしてられないから簡潔に言うけど、高松。この本多の腕は使い物にならないくらい深手なんだ」
「それは見れば分かる。よくその腕で戦陣に立っていたものさ」
 高松はげんなりとした口調で言い、本多の顔を睨みつけ、
「相変わらず君は痛みを気にはしない。どんな痛みも抑えこんでしまう悪い癖があるね」
 やれやれだとため息をついた。
 すぐに高松は本多の腕を手に取る。大鳥が気を利かせて本多の軍服を脱がせにかかると、すぐに包帯ばかりの上半身があらわになった。
 戦士の体と小五郎は身震いする。未だ二十歳をわずかに越したばかりの年で、本多はいかに闘いに身を置いてきたかをその体が証明していた。
「随分とざっくりとやられたものだ。この傷は縫合しないとならんな」
 どす黒い腕の包帯をほどき、高松は少し暗い顔で言った。

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「うん。そう思ったよ。だから本多をここに置きに来た。……明日から、俺たちは七重浜に夜襲をかける」
「それは剛毅なことだ」
 大鳥が「夜襲」と言うと、なぜか近くの山に遠足に行くかのようなのんびりさが耳に残るのが不思議だ。
「本多だけど、この傷では連れていけないといっているのに、俺の言うことをまったく聞く気がない。……傷がふさがったら引きとりに来るからそれまで頼むよ」
 当の本多はと言えば、先ほどから一言も口を聞かず、その目はぼんやりとして焦点があっていないのが小五郎には恐ろしかった。夢現とは違う。感情という感情をすべて封じた人形のような無機質な目だ。
 大鳥の傍らで穏やかに微笑む本多を知っているだけに、小五郎は「嫌な予感」をひしひしと感じていた。
「ここには小五郎どのがいるから、いざとなれば本多を打ちのめしてでも止めてくれるかなとか思ったのもある。それに……ちょうどいい。ちょいと死神も祓ってほしいんだ。まだまだ本多には死神が付きまとっているから、その点、よろしく」
 明日のこの時刻には夜襲に出る男とは思えない明るい物言いに、思わず噴き出しそうになった小五郎だが、大鳥の目はちっとも笑っていない。むしろ怒りで充血している。
「死神祓いは横に置いて、後は了解した。本多くんは預かる。伝習隊の総督だから長らく療養などできんだろうが、若いし体も鍛えているから四日で傷はふさがると思うよ」
「助かる。ありがとう、高松」
 高松は何度もため息をつきつつ本多を見ていた。その目には「仕方ないな」と半ば諦観の色が見える。

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直観で高松は「何かを知っている」と思ったが、小五郎は黙して、ただジッと高松を見据えた。
「じゃあ俺は行くよ。作戦を立てないとならないし」
 大鳥が立つと、それと条件反射のように本多が立ちあがろうとするから、慌てて高松が本多の腕を取った。
「君はここにいてもらう。本多くん、これは医者の命令だ。分かるはずだ、君ならば」
 がっしりと高松が右腕を掴み、一度は抗った本多だが、高松の目を見据えると、不意に抵抗をやめた。
「小五郎くん。大鳥さんを見送ってやってくれ。意外と寂しがり屋だからな。ついでに井戸の水も頼む」
 小五郎は軽く頷いて、大鳥と一緒に外に出た。空には星が無数に煌めき、明日もきっと天気は良いだろうなと思う。
 大鳥の足取りは鈍く、小五郎はその顔色を見て、疲労で倒れる寸前なのではないかと案じた。
「本多のことを頼む。あの傷で敵に斬り込むなど……死にたがり屋で困ったものだよ。そう言えば小五郎どのも似たりよったりのことをしたっけ」
「……」
 松前に斬り込んだことを大鳥はからかい口調で言っている。
「その君が今はもう死にたがりの目をしていない。小五郎どの。君はどうやって死神を祓ったんだい」
「大鳥さん」
「うん?」
 小五郎は空を見ながら囁くように言葉を紡ぐ。
「大鳥さんがいつも言ってることと同じです。ただ一言。死なないでという言葉です」

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「……」
「この言葉の威力は凄まじい。ただの一言なのに、大切な人に言われると心が痛くてならず、気付いた時には死のうという思いはなくなっていました」
「そっかぁ」
 大鳥も空を見上げて、そして笑った。
「本多に何度も俺は言っているのにな。少しは効果があると思ったら、敵陣に突っ込んでいく始末だ。しまいには忙しいという言葉の方が効果があると知ってしまったんだけど」
 まいったなぁと苦笑を浮かばせ、ポリポリと頭をかきながら、
「それでも言い続けないとならないな。死なないで、か。これから何百、何千と言おう。けど、ずっと傍にはいられない。この病院にいる間は、小五郎どのが言ってやってくれないか」
 それには軽く頷いて「はい」と答えた小五郎は、泥まみれとなった軍服や裂傷が見える大鳥の顔から、きな臭い硝煙の臭いを敏感にかぎ取った。
「大鳥さん。死なないでくださいね」
 だからか、ついこの言葉が出たのかもしれない。
 大鳥はゆっくりと視線を小五郎に向け、軽く首を傾げてこう言うのだ。
「俺はしぶといから。藁にでも縋ってでも生き抜くよ」
 馬に乗り、急ぎ早に大鳥は去った。騎乗する際に馬に蹴られないか本気で心配していたが、どうにか騎乗し、最後まで本多のことを頼んで五稜郭に向かった。
 小五郎は井戸で水を汲んで院長室に入ると、高松が本多の腕をジッと見てため息をついていた。
「よく大鳥さんに隠し通したものだ。

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腕の傷どころじゃないだろうに」
 小五郎は清潔な拭いを水でしぼり、本多の体をふき始める。
 本多は相変わらずぼんやりとしていた。高松の声も聞こえているかどうか知れない顔をしている。
「とりあえず、至急縫合しよう。こういう時、華岡さんの通仙散があれば楽なのだろうな」
 小五郎も噂には聞いたことがある。日本初の全身麻酔による手術を成功させた華岡青洲の名は全国に知れ渡った。その青洲が秘伝とした麻酔薬の名が「通仙散」である。 小五郎も実家が藩医であったため、当時の医学界の情報はそれとなく耳に入った。
「ないものをねだっても仕方ないな。とりあえずあまっている焼酎を持ってきてくれ。できるものでやるしかない」
 小五郎は無言で頷いてすぐさまに大部屋に向かった。
 ここには傷が深いものが横たわっている。今は患者たちは眠りの中にある。起こさぬように足を忍ばせ、消毒代わりに使用している度数の高い焼酎を腕に抱えた。
 今の本多の体力では縫合に耐えられるかどうか。それを思った時に、脳裏に同じく縫合を受けた友人の顔が浮かんだ。
 そう彼は闇討ちにあい、顔や背中など何カ所も斬られた。それも敵対していたとは言え同じ長州藩の藩士にである。彼は命からがら実家に戻り、兄に介錯を願ったと言う。
『聞多は治る。治してみせちゃる気に』
 介錯をしようとする兄をその母が必死に止めた。偶然にも訪ねて来ていた所郁太郎に医学の心得があり、所は畳針で彼の傷を縫合したという。
 二歳年下の後輩井上聞多は今は京都にいるのだろうか。確か佐渡県の知事に就任したはずだが、

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あの金回しの天才が地方に埋もれるはずがない。おそらく中央で財政の献策でもしているのではないだろうか。
 不意に故郷の匂いに包まれた気がして、小五郎はそれを必死に振り払った。そしてほとんど音を立てずに院長室に入ると、すでに高松の用意は整っていた。
「君はしっかりと本多くんを抑えていてくれ」
 頷くと、高松はフッと笑った。そして小五郎が手渡した焼酎を受け取り、それを厳しい目で見据えて蓋を開ける。
「武士ならば耐えなさい」
 ザックリと開いた傷に口に含んだ焼酎をぶはっという音ともにふきかけた瞬間、本多の体が波の形の如くうねり、小五郎は必死に抑えこむ。
「本多さん。本多さん」
 何度もその名を呼びながら、小五郎は高松の縫合を目をそらさずにジッと見守った。


 伝えねばならない。
 ぼんやりとした意識の中で本多は思った。
 決して死に急いだのではない。あなたの「死なないでくれ」という言葉を踏みにじったわけではないのだ。
 体を斬り裂くかのような激痛は、次第に麻痺にと変わっていった。うっすらと目を開けると、高松が必死に縫合しているのが見えた。小五郎の自分の名を呼ぶ声も耳に入ってくる。
 その中でも本多には現実感はなく、この目に入るところに大鳥の存在がないことにわずかな落胆が生まれていた。
 大鳥は翌日に七重浜に奇襲をかけるといっていた。

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陸軍は撤退したが、未だ海では海軍が死力を絞って闘っている。
 この大事に自分はなんと体たらくか。体を引きずってでも奇襲に加わりたいと思おうとも、すでに体は本多の思うがままにはならなくなっていた。
 本多が体の変調をまざまざと知ったのは、富川での一戦だった。伝習隊を率いて奮迅する中、馬上で剣を奮っていた本多の意識が、不意にぷつりと切れたのだ。
 敵陣の大砲の音により意識はすぐに戻ったが、その目はぼんやりとしか見えず、耳には耳鳴りのキーンとした音が鳴り響き、戦陣の音を拾わなくなっていた。
 本多は思ったものだ。ついに来るべき時が来た、と。
 一年ほど前の宇都宮での一戦で本多は背に銃弾を受けた。すぐに応急処置を受け、会津の日向村で療養となったが、その際に満足な処置をしなかったため体が弱り、高熱と低温を何ヶ月も繰り返すことになった。どうにか立ち上がれるようになり温泉で大人しく療養した時にはすでに遅かったらしい。
 箱館で治療を受けた際に高松は「免疫が全くない」とため息をついた。人の体には免疫というものがあり、些細な菌が入ろうとも払拭する力というものが備わっている。だが本多は先の怪我とその後の悪い処置が重なり免疫力が低下したというのだ。 些細な菌にも太刀打ちできず、病ばかりを引き起こす。現に会津でもそして蝦夷に渡った後も何度か軽い病にかかったが、意識を失うまでには及んでいなかった。
 その免疫の低下が引き起こすのか。戦陣に立っている折、時折、眩暈や耳鳴りが酷くなることがあった。それを放置すると意識が途切れることもある。だがそれもごくたまにであり、本多自身も楽観していた。慣れた思いが油断を呼んだのかもしれない。

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 富川でぼんやりとしか前が見えなくなり、ひどい耳鳴りが周囲の音をかき消した時、油断のツケを払う時が来たのだと思った。
 自分がどの位置にあるかも知れず。ただ前に敵らしき影がわずかに見えた気がした。普段ならば冷静に判断できただろうが、この時の本多は周囲から一人隔離されている気分だった。
 目と同様に意識もおぼろになってくる。気付いた時には馬を前方に進ませていた。脳裏には敵を斬るという思いしかなく、そのまま突撃しようとした時、誰かが馬の手綱を掴んだ。
『撤退の指令が出ている。伝習隊の総督がこんなところでなにやっているんだ』
 しんがりをつとめていた額兵隊の星だった。星は前方より退かない本多が気になり、引き戻しに来たらしい。
 その後は星に引っ張られるままに七重浜に退いたが、本多の意識はぼんやりのまま戻らず、人の言葉も満足に聞きとれないのを隠すためにだんまりを決め込んだ。
 大鳥がこの箱館病院に自分を置いていったのは当然のことと分かっている。それでも一人、置き去りにされた心細さと落胆が胸にはあった。
「無事に終わった。凄まじい痛みだろうに、こんな時でも呻かないのか、君は」
 ため息まじりの高松の声が耳に伝う。
「一晩眠るといい。大丈夫だ。すぐに動けるようになる」
 わずかに安堵が生まれ、本多は眠りに入ろうとしたときに、大鳥の顔が脳裏によぎった。
 心配気な顔をしてジッと前を見ているその顔。時折、振り返って本多ににっこりと笑うその笑顔が好きで、その笑顔を守りたいと思って刀を握った。

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 傍らに戻りたいと思う。同時に今の自分では大鳥の足手まといにしかならない現実が本多を苦しめた。
「傷を清潔な布で覆えば菌は入らなくなる。あとは横になって体を回復させる。鍛えているからな、君は。その腕は四日もあれば動くようになるよ」
 まるで高松は自分の心を見透かしているのではないかと思うほどに、今、本多が欲しい言葉を簡潔に告げてくれた。
「だから安心して眠るといい。君に必要なのは睡眠だ。後は目覚めてから話そう」
 顔に滴る汗はすべて小五郎が拭いてくれたのだろう。
 本多は自身に「焦るな」と言い聞かせる。今、自分ができることは眠ることのみ。どれほどに情けなかろうとも眠らなくては大鳥の傍らには戻れない。


 本多が眠りに入るのを見届け、高松と小五郎は院長室で軽く睡眠を取ることにした。本多が心配なこともあり傍を離れるわけにはいかないので、ベッドの下に布団を敷いて並んで横になる。
 おそらく本多は熱が出ると思われる。その際の処置は急を要するだろう。
 小五郎は目が冴えていた。無理に眠ろうとしても、すんなりと眠りは訪れはしない。それは高松も同様であるらしく、二人ともがいつしか月明かりの中で目を開けて互いを見ていた。
「いずれは聞きたいとは思っていたが、小五郎くん」
 小さな声で尋ねるその問いの内容を、小五郎は承知していた。
「どこで死神を落としてきたんだい」
 いつかは高松には話さねばならないことである。

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小五郎は覚悟を決めて、松前での一件をかいつまんで高松に語った。
 高松は何一つ口を挟まずに聞いていた。闇に慣れた目で見る高松の顔には、揺らぎが一切ない。
 小五郎は自らが長州藩士たることを秘して、松前で昔の仲間に出会ったこと。その仲間をどうしても刀で斬ることができず、また仲間が自分を救おうと刀の前に立ったことなどを話し、そして、本髄を口にした。
「仲間は私に死なないでと言いました。お願いだから死なないで、と。なぜかその言葉が胸にしみて、かつて死に行く仲間たちに私が言いたかったのもこの言葉だったのかと思いました」
 そう思うと箱館病院に戻らねばと思うようになり、病院に戻れば戻ればで患者の手当てや薬草摘みに大慌ての自分がいる。
「大鳥さんがよくいっていた。死なないでというのは最強の呪文だとね。それが大事な人の言葉であればあるほど人を動かすのかもしれんな」
 感慨深げにつぶやいた高松は、軽く起き上がって本多の寝顔を見据えた。
「まだ若い。死を一種の美学として心酔しやすい年だ。大鳥さんの言葉をきちんと知らしめるためにも、本多くんは死んではならない」
「……はい」
 大鳥は何度も何度も本多に対して「死ぬな」と言い続けている。自分を守って死すのを本望とする本多に対して、生きることがいかに大切かを口を酸っぱくして言い続けてきた。
 もしも本多が自らの思うがままに死を遂げたならば、大鳥の精神も思いも全て藻屑と帰す。

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「傷は四日ほどでふさがるだろうが、大鳥さんが迎えにくるまではここで療養させる。これは医者としての絶対命令だ」
「私が監視役として付きます」
「頼もしいね。死神が離れた人は」
 からかいが多分に含んだその言葉に、小五郎は笑って頷いた。
 もうすぐ夜明けだ。明日のためにも少しは仮眠を取っておかねばならない。箱館病院では小五郎はとても忙しい。その忙しさがさまざまな悩みを打ち消して、どうにか一人の人間としてこの大地に立たせてくれている。

 不意に小五郎が目を開けたのは、わずかに漏れた本多の呻き声を感じ取ったからだ。すでに高松が本多の横で熱を測っている。予想通り高熱を発したらしく、本多の呼吸が荒れていた。その手を取り、時に額に置く拭いを変え、流れ落ちる汗をぬぐい、高松が調合した薬を口に含ませながら、今日一日が長くなることを小五郎は覚悟した。
「生きてください」
 思いを込めて、その言葉を繰り返す。
 四月三〇日の日の出は目に痛かった。
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逝く者、いくもの 27-12

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