逝く者、いくもの

16章

 四月十二日、函館よりわずか西に四十キロメートルの木古内周辺で戦端が切られた。
 箱館市内よりは、まだ離れた場所だが、刻一刻と征討軍が近付いていることが知れる。市内には思わしくない噂が日々流れはじめていた。
 そんな折、単身現れた榎本総裁が、高松箱館病院院長にひとつの依頼をする。
「戦端は長引く模様です。これから松前や木古内は海からは艦隊の砲撃を浴び、負傷兵が多数出る。野戦病院では持たない。軍医も薬も足りぬ、と泣きが入った。高松先生、手が足りないのを承知でお頼みします。怪我の手当てをできる医者でいい。木古内に何人か回して欲しい、欲を言えば二股の土方くんの元にも」
「……私が行きたいほどですが、箱館もネコの手を借りたいほどです。誰かを回すことは」
「正規の医者でなくてもいい。手当てができれば……」
 本日は軽く散歩して後、負傷兵の手当てをしていた小五郎に、偶然にも、そのいきさつが耳に届いた。
「私でよろしければ」
「冗談ではない」
 榎本が瞬きする中、高松が間髪入れずに叫んだ。
「快方してきたとはいえ君は患者だ。しかも……今だに身体は完全には元に戻ってはいない。病人をやるわけにはいかない」
「……無理をしなければ大丈夫です。私は医者の息子です。怪我の手当てくらいは」

逝く者、いくもの 16-1

「小五郎くん。君はここで休んでいればいいんだ。私の手伝い以外することはない。そうでないと土方くんの怒号が飛ぶ……」
 だが「医者の息子」という言葉に、榎本は縋る思いで見上げてきた。猫の手も借りたいのだ。どの戦場においても。
「お頼みしてもよいかね」
 応急手当ができる程度でもありがたいらしい。
「何を言うんですか、榎本さん。この小五郎くんは二月までは寝たきりだったんだ。それに土方くんがどれほど心配しているか」
「志願していただけるのはありがたい。本当に……医者が足りないのだよ、高松くん。……だが何が起きるか分からない戦場だ」
 榎本の言葉に、小五郎はコクリと頷く。
「木古内や松前は海沿いより砲撃がこれから連日続く。木古内一帯……地獄になるだろう。甲鉄からの砲弾は……悍ましい威力だ。そんな中に君は……医者として赴けるかい」
「武士たるもの一度戦に出れば死を覚悟するもの。私は武士です。ですが医者として今回はいきます。一人でも多くの命を救うために」
「ダメだといったらダメだ。榎本さん、この小五郎くんは労咳だったんだ。悪化したらどうする。ようやく良くなったんだ」
「いや、高松くん。この人にお願いしよう。無理はさせないと条件付きだ。君がすることは応急手当のみ。それは大鳥さんに言い含めることにする。……君の手を見るに竹刀を相当握りこみ修練したものと見られる。いざとなったら避けることくらいできるはずだね」
「はい。鉄砲玉を避けることくらいは」
「榎本さん。この小五郎くんは自分から鉄砲玉に突っ込んでいくんじゃないかと思わせる。死にたがり屋なんだ」

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「……命を大切にしなさい。必ず無事に戻りなさい。……命を粗末にするものは、この榎本は好きじゃなくてね。約束するかい」
 高松は仏頂面のまま、小五郎の前に立った。
「自ら決して死に急がないと誓いなさい。決して死なぬ、と。君には死神がついている」
 小五郎は笑い、誓います、と告げ、そのまま伝習隊の兵士に守られ木古内に向かった。
 見送る高松は、終始仏頂面で、口にする言葉は「やめなさい」ばかりだったが、最期は諦めたのか数多くの薬を小五郎の手に握らせて、
「君がいなくなれば、此処の患者は……泣く。土方くんは怒って泣くだろう。よく覚えておきなさい。君の命は、君が思うほど軽いものではない」
 高松の手は震えながら、強く強く小五郎の手を握りしめた。
 ……いきなさい。
 その言葉がどれほどに重かろうとも、小五郎の心には響きはしない。心は氷のように冷たく固まり、溶けることを頑なに拒んでいる。



 そこは掛け値なしに戦場だった。
 太平洋側より引っ切り無しに飛んでくる砲弾。
 征討軍は江差より山道を通り兵を木古内方面に向かわせることを決めた。その江差口の入口、ちょうど現在の国道五号にあたる弥七沢(現在の上ノ国町)にて征討軍との戦火が十日ほど及ぶことになる。

逝く者、いくもの 16-3

 小五郎が着いてきたのは、ちょうど木古内に四小隊という援軍を連れて入った陸軍奉行の大鳥の部隊である。
 既に木古内の外れも戦場となり、砲弾が飛び交う。小高の萩山周辺に布陣し、運ばれてくる負傷兵の手当てに小五郎はあたることになった。
 この日四月十二日、萩山で白馬にまたがって全軍を指揮した大鳥は、後世まで木古内において「白馬の騎士」として名が残ることになる。
 一日が早く、そして壮絶と言えた。
 戦場は驚くほどないもの尽くしだった。水もない。薬もない。包帯もない。
 衣服の裏地を裂き包帯代わりとし、休戦となると、小五郎は数人の兵士と共に山に入り、止血止めになる薬草を探す。
 時には近くの川に水を汲みにもいく。
「………」
 傷ついた兵士は涙を流す。小さく動く口が声を刻まなくとも「ははうえ」と読みとれた。
 手を握る。せめて温かな手であれば良い、と思ったが、四月とはいえ肌寒い気温が、小五郎の手を冷たくしかも乾燥して罅割れた手に変えてしまっていた。
 その手を握る兵士たちの死を……何度看取っただろう。
 慣れることのない喪失。息が止まるその瞬間の押し寄せる痛み。慣れぬ境遇の中、軍医はこう告げた。
『生きれる命を一人でも多く』
 死していくものには、わずかでも温かさを。
 死体は並べられ土葬となる。誰かが「埋めてもらえるだけありがたい」と呟いた。

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あの上野での戦争を知る彰義隊の生き残りは、戦死した兵士の亡きがらが無数に地を覆うのを見た。
「勝者は時に敗者に寛大で、時に死者に残酷」
 死体に覆い尽くされた上野の街。普段はのどかな寛永寺周囲にも死体と銃弾の痕が生々しく、死者の遺体は「埋葬ならず」の言葉で朽ち、鳥の餌となるという阿鼻叫喚図が広がっていたという。
 小五郎はその頃、京都にあった。上野を落としたのは盟友の大村益次郎である。後に円通寺の住職や新門辰五郎らが埋葬の許可を願い、山岡鉄太郎の嘆願によって許可されたと聞いた。
 今まであえて押しとどめてきた何かが、胸に張り裂けそうな痛みとなって押し寄せ、それは激情になって涙を落とし、時がゆっくりと心の底に落ち着く場所を見つけさせる。寄せては戻り、また寄せては戻る。まるで波のような感情だ。
 そんな中、最前線の指揮にあたる大鳥が、疲れ切った顔で現れた。十四日のことだ。
「やれ、疲れるね」
 大鳥の性格は変わらない。敗北しようが、勝利しようが、にこにこと人の良い笑顔を見せる。それを批判する者も多いとは聞くが、辛気臭いよりは笑っている方が元気も出る、と伝習隊の人間は心得たかのように言っていた。
「俺たちも疲れているように、敵さんも相当に疲れているだろうね。持久戦に持ち込めば、敵さんは……追い詰められる」
 一息ついた小五郎に、差し出されるのはさ湯。温かい、と小五郎は頭を下げた。
 大鳥の手が、そっと小五郎の頬に触れる。それは額に移ると、にんまりと笑うのだ。

逝く者、いくもの 16-5

「良かったよ。熱はないようだね」
「…………」
「小五郎殿は労咳を患っていたんだ。……労咳はね。衛生面の悪いところに長くいるとぶり返すこともたまにあるんだよ。一番にいけないのは疲労。君は働き過ぎだから、少しは休んで、眠って、良い空気を吸うといいよ」
「大鳥さんは医者でしたね」
「そうだよ」
 休戦の際には、部下たちの怪我の応急手当は大鳥がする。
「ただの赤穂の街医者の倅が……戦場に医者ではなく指揮官としている。時々、俺はこれが胡蝶の夢でないかと思う時もあるけど、それは願いであるだけだね」
「胡蝶の夢……」
 古の故事である。荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めた。その際、自分が夢で蝶となったのか、それとも蝶が夢見て今の自分になっているのか。その判別がつかぬことを言う。
 夢と現の狭間の区別がつかぬことを「胡蝶の夢」と使う。
「私はこれが現実であることを知っていますよ」
 さ湯の温かさが芯まで冷え切っていた小五郎の身体を包む。
「……現実であるとしか思えません」
「君には……前々も言っていたけど何か願いはないのかい」
「そうですね。私の現実はこの戦場。そして私の願いは……」
「戦って死ぬこと」
 大鳥はのほほんといった。
「やれ夢を持たず、現実逃避もせず、ついでに死にたがり屋は好きじゃないね」

逝く者、いくもの 16-6

 その典型的な人間が大鳥の傍らにも一人ある。大鳥を守り、大鳥の盾となって死すことを願う若き歩兵頭。
 どれほどに大鳥が「生きてくれ」と言い聞かそうとも、頑として願いを変えはしない頑固者の副官は、今敵情視察に出ている。
「……此処はしばらくは動きがない。小競り合いがあるだけだから、本多に任せて俺は一度本営に戻る。小五郎殿もいっしょに戻ろう」
 いいえ、と小五郎は頭を振った。
「さして役には立たぬ身ですが、傷の手当てにあたります」
 やれやれ、と大鳥は困った顔をした。
「高松からはさっさと君を送還して欲しいと矢のような催促だよ。高松は小五郎殿に手当てをさせるくらいならば、俺に医者をやれ。どうせ負け戦なんだから、その方が人の役に立つ、という痛烈な嫌味を送ってくる始末でね」
 高松と大鳥は緒方洪庵主宰の大坂適塾で学んだ同門といえる。年は大鳥の方が数年上で、机を並べて学んだことはないとのことだ。
「それでも……私はここにいる」
「……死に場所を探すためにかい」
 それには曖昧に笑っておいた。
「君は人の命をそれは大切にする人だね。その手の豆を潰すほどに剣術を学んだだろうに、その剣をもってして人を殺すことを厭う……そんな性格をしている。守るために苦しみながらも剣を持つ人もいる。自らの身を守るために剣をふるう人もいる。君は小五郎殿。生きるためでなく、人を活かすためでもなく、自分を殺すためにその剣をふるうのかい」
 ……やめてくれ、桂さん。いいんだ…アンタは……いいんだ。

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 胸の奥に眠っていた声が、脳裏に響いた。
「私は一度……剣で刃を返したことがあります」
 幼馴染が刺客に襲われ、腕より血が流れているのが見えた。
 あの時、心の中で何かが切れた。刺客はほとんどをみねうちにしたが、幼馴染を斬りつけた刺客には無自覚に刃を返した。
「あの時、身を抱きとめられねば、間違いなく私はその相手を殺していたでしょう」
 やめてくれ、と。必死な幼馴染の声が、この手から刀を離した。
 いいんだ、と。自分は大丈夫じゃ、と笑ったその顔が自分を止めた。
「私は優しくなどない。偽善的で……何よりも心に狂気をかっている。大鳥さん……その狂気がもう私にはどうにも止められないのです」
「……釜次郎もとんでもない人間を戦地に送ってきたものだ。気が気でならないよ」
「申し訳ありません」
「そう思うなら、きちんと生きろ。死ぬな。足掻いてでも、歯を食いしばってでも生きろ」
「………」
「君にもそういう時期があったはずだよ。あぁどうすれば、足掻いてでも生きるんだ」
「……その足掻くものがなくなりました。汚名も、屈辱も、そして大切な人も」
「小五郎殿」
 大鳥の両手が小五郎の頬を挟み、まさに幼子に「めっ」とするかのような顔をする。

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「君がいなくなれば、俺は泣くよ。本多も泣く。土方くんなど叫ぶ。永井さまも、中島さんも、高松も、みぃんな泣くんだ」
「………」
「俺は分からず屋の頑固者には何百回、何千回でも繰り返すことにしている。命より大切なものはない。命は誰にも平等にただひとつ。地を這ってでも、足掻いてでも、藁に縋ってでも生きろ」
「大鳥さんのような人はきっと長生きしますよ」
「君のような死にたがり屋は、総じて短命なのが、腹が立つな」
 大鳥は箱館より出来うる限りの薬や包帯など医療品をかき集めて戻るよ、と手を振って戻っていった。
 その際、十二日の心境を漢詩にして読んだ、といって、懐紙に書かれたそれを、置いていった。
 砲響雷轟、弾霰れ飛ぶ。 両軍相乱、龍威を震う。一奇一声、容髪を容れず、 丘陵に馬を立て、戦機を観ず。
 兵を率いて木古内に赴く
 三軍、競いて進む、気は霓の如し。 旗鼓堂々と白馬嘶く。
 遥かに聴く、先鋒方に交戦す。 鼓声銃爆は翠微の西なり。
 学者としても超一流。兵学者、洋学者としても名を馳せた大鳥は、語学も堪能であると同時に、漢詩にも秀でていた。
 征討軍はそんな大鳥を「知識の泉」と呼び恐れるが、残念ながら戦略家は、実戦にはとんと不向きなようだ。
「大鳥さんらしい」
 自然と口元に笑みが刻まれた。
 初めのうちはきれいな文字で認められていたが、だんだんと面倒になってきたようだ。徐々に文字は崩れ、最期などは字を判別するのが難しい。
 人は精神の極地でも、ふとしたことに笑えるようだ。

逝く者、いくもの 16-9

 小五郎はしばしの間、茫然とするほどに驚いた。


 大鳥の言葉の通り、その後は戦局は膠着状態であったが、征討軍の軍勢が、木古内に向けて進軍を開始している。
 大鳥にかわって指揮をとる本多幸七郎の、その左腕に巻かれている止血止めは真っ赤に染まっていた。
 小五郎は休むことなく治療にあたるが、ないもの尽くしの戦場では、せめて負傷兵に清らか水を飲ませることが、小五郎の役割となっていた。
(敵も味方も……傷ついて苦しんでいる)
 このような戦争は何の意味があるのか、と空を見据えたことがある。
 だが、鳥羽伏見に始まるこの戦況を考えるとき、戦を始めたのは確かに自分たちでもあったと思う。
 国の変革を願った。よりよい国を、列強に負けぬ国を、と大義名分は確かにあった。
 迷ってはならぬと分かってなお、迷うこともあった。坂本龍馬に「戦をしてはいかんぜよ」と、胸元を掴まれたことがある。
 絵空事と笑ったのは自分でもある。戦なくして変革を望めるならば、それは一番に望むこと。犠牲なくして、血を流さず、殺し合いもなく変革が成し遂げられた例があるなら、教えてほしい。
 あの時、小五郎がかざした大義名分が、今、この蝦夷地で終結を迎えようとしている。累々と死体の山を重ねて得た結果が、此処にある。
 戦の果ての果てまで来て、気付かされることは「哀しみ」ばかりといえた。哀しみの果てに終わりはいつ訪れるのだろう。

逝く者、いくもの 16-10

「終わり……私はそれを見ることは……ない」
 一夜一夜命に対する思いが希薄になっていることが分かる。
 明日は我が身か。それともその次の日には……この命も消えようか。
 蝦夷にて一人の医者見習いが亡くなろうとも、国家の命運が左右される訳ではない。
 遺体は放置されたままになるだろうか。鳥や獣に食されるか。それとも誰かが無縁仏と葬ってくれるだろうか。
 上野も累々と遺体が積み重ねられていたと言う。埋葬も許されず放置され、その場は阿鼻叫喚の地獄であったと聞いた。
 この度の戦争も同じことが起きるかもしれない。埋葬を許されない遺体が累々と積み重ねられるならば、いっそ自分も同様にしてほしい。
 死後のことなど死したものには分からぬのだが、因果応報という言葉があるように、報いは必ず身に返ってくると小五郎は思っている。
「それとも……大鳥さん」
 あなたは何のために私を放置するのか。
 いざという時、あなたならば、この身をいか様にも使えよう。
 それをせずに……死にたがり屋の自分を戦場に止めたのは、慈悲なのか。憐れみなのか。
 小五郎は、この地でなによりも大鳥圭介という男が底が知れず、怖かった。
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