逝く者、いくもの

24章

 富川の空は透けるように青い。
 これが「空色」と言う色かと妙に納得して大鳥圭介は空を見ていた。その顔はニコニコと笑っているが、少しばかり困っていたりもする。矢不来で予測不能なことが起きてしまったからだ。
 それは昨日のことである。
 矢不来の一戦において、征討軍の海からの艦隊砲撃に為すすべもなかった。この時の状況を大鳥は日記に、
 軍艦より飛来る大弾雨のごとくにて、或は谷に落ち、或は樹を倒し、又胸壁を崩し、土を四方に飛散し、勢甚だ猛烈なり。
 と記している。
 陸では木古内方面より攻めてくる敵をひたすら防戦し続けたが、それも時間の問題であった。富川への撤退を全軍に指示し、負傷兵は蟠龍で箱館に送り届ける指図をして後、大鳥自身どうにか富川の陣に到着し一息入れようとしたところでその報せを聞くことになった。
「困ったことになりました」
 腹心の本多がその端整な顔をしかめて大鳥を出迎えた。
「俺には毎日が困ったことだらけだ」
 ニコリと笑って下馬し、大鳥はチラリと本多の左手を見据える。そこに包帯を巻いたのは大鳥自身だが、その包帯がどす黒くなっていた。血が乾いた色だ。思わず舌を鳴らしかけたがそれは抑え、大鳥は本多の手を引く。
「その包帯を巻きなおす。……俺が来る前に軍医に手当てをしてもらわなかったのか」

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 すると本多は軽く微苦笑を浮かべて、こう言うのだ。
「これをおまじないと言ったのは大鳥さんですよ」
 一瞬、大鳥は怪訝に顔をしかめた。
「無事に戻るようにというおまじないだと言いました。ならばおまじないをしたあなたが戻るまでは外さない方が良いかと」
「……なんだ、それは」
「この包帯は大鳥さん以外の手では外してはならないような気がしたのです」
 本多は穏やかに微笑んで、大鳥の目を優しく見つめてくる。実に優しい目をする。慈しみに満ちたその黒の瞳を見ると、大鳥は訳もなく心が温かくなって、あぁ生きているなと思うのだ。
「そう……だな。無傷でないところはいただけないけどちゃんと無事に俺のところに戻ってきたんだから、おまじないもある程度は効果があるってことか」
「えぇ」
 本多はこの包帯が目に入ると心持ち「無茶」はしてはならないと制御がかかる。このことは大鳥には言わないが、別の意味で大鳥のおまじないは効果はあるのだった。
「よし。今度は戦場でも緩まないようにぐるぐる巻きにしよう」
「馬の手綱を握れなくなるのでやめてください」
 それには苦笑で答え、本多はゆっくりと表情より優しさを消し、副官の顔で大鳥の横を歩く。
「ご報告します」
「一大事ならば今すぐに。別段緊急でないならおまえの手当てをしてから聞く」
「……困りましたね。それほど一大事ではないですが困ったことなんです」

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「俺がいちばん困るのはおまえが怪我をして、俺の補佐をできなくなることだよ」
 この死にたがり屋が、と軽口を叩いた大鳥はそっと本多の顔を見上げて、にんまりと笑った。
「怪我の治療をしながら話しは聞く」


「……それは困ったことだな」
 本多の手の甲に化膿止めの薬草を塗り、それを薄い布で抑えて包帯をぐるぐると巻きつつ、大鳥は「うぅ~」と唸った。
「けっこう一大事じゃないか」
「今すぐどうこうできる問題ではないですが、これでは兵士の士気にかかわりますね」
 薬が染みるだろうに本多は眉ひとつ動かさずに大鳥の手当てを受けている。
「今から五稜郭に伝令を出す。それで釜次郎に明日は有川に来てもらうことにしよう」
 大鳥は覗きこむようにして本多の目を見た。
「……総裁をですか」
「士気の低下を防ぐには総大将自ら戦場に立ってげきを飛ばすことが必要だと俺は思う」
「それは確かに大鳥さんのおっしゃる通りです。分かりました。伝習隊から伝令を選んですぐにも五稜郭に」
「待った!」
 今にも鉄砲玉のように飛んで行きそうな本多の袖を掴んで、大鳥は声を張り上げた。
「その隊服を脱げ。次は腕の治療だ」

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 そこで本多はそっと視線をそらした。気付いてはいないと思っていたのだろう。表情には出さず腕の動きにもぎこちなさはなかったが、大鳥の目はごまかせない。なにせこの二年あまり、寝食を共にするほど傍にいたのだ。
「腕の傷がひらいたんだろう。俺に隠し通せると思ったのか」
「いいえ……」
 諦めたのかそこで本多は隊服を脱ぎ、自らの左腕を大鳥の前に差し出した。
「またざっくりとやったものだ」
 同じように消毒をし化膿止めを塗り、それを包帯で巻きながら、本多はどうしてこうも怪我ばかりをするのかと大鳥は怒りがふつふつと沸き立ってきた。けんかっ早く血の気も多い泣く子も黙ると言われた伝習隊の本多は総督ではあるが、 伝習隊一思慮深い男だと思っている。だがそれも平時であればだ。一度戦場に出ると、突如鉄砲玉のように戦陣を切って駆けだすものだから、大鳥としては何度血の気が失せたか知れない。本多の行動の意味など知っている。すべて大鳥のためだろう。 それも馬の操縦が巧みではなく、ついでに戦場での差配が下手。常敗将軍などと陰口を叩かれている自分を守るための行動とは分かってはいるが、本多の無謀な行動は心臓に悪すぎる。
 そればかりか本多は命をかけて大鳥を守ろうとするのだ。自らを楯と思ってほしいと面と向かって言われた時は、もはや怒りを通り越して頭の線がぷっつりと切れてしまい、大鳥は思いっきり本多を殴り飛ばしたものである。
『俺は命を大事にしない奴は大嫌いだ』
 無抵抗に殴られ続けた本多だが、以降も自分の命を顧みない行動は続いている。

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(半年前と比べれば少しはましになった……かな?)
 少しというよりはほんのわずか? 僅少と言えるほどだが、心持ちどことなくだが変わった気がした。
「……大鳥さん」
 無言で治療を続ける大鳥の顔をジッと沈黙したまま見つめていた本多だが、どことなく居心地の悪い顔をしており、
「怒っていますか」
「当たり前だ」
 大鳥は少し声を張り上げた。
「俺が見ていない知らないところで傷などつくって。いいか、本多。俺はなんのためにこうしておまじないをしているか分かっているのか」
「……」
「必ずその身は傷一つなく俺のもとに戻るようにって願をかけているんだぞ。なのに毎回毎回傷ばかり。これじゃあ俺の願は全く効果なしみたいでかたなしじゃないか」
 一瞬だけポカーンとした本多だが、次第にクスクスと小さく笑いだすものだから、大鳥はムッとした。
「なんだよ」
「いえ。大鳥さんだなぁと思いまして」
「だから、なんだ」
「たった一つの言葉で私を元気にしてくれます」
「……」
「手当てをありがとうございました。今から伝令の支度をいたしますね」
 腕の傷は口がさけても軽いと言えるものではない。ザックリと深く裂けている。わずかな動きでも鋭い痛みとなるはずだ。

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 その傷で戦場に立つなど本当は無謀である。だが止めてどうなるというのか。本多という人間を心得すぎている大鳥には療養という言葉を言いだすことはできない。例え療養地におしこめても、この男は刀を杖にしてでも戦場に立つ。
(……本多だから…)
 どこか知らぬ場所で戦い、傷を負って倒れるくらいならば、自分の傍にいてくれた方がいい。横で補佐として留めておけば安心できる。
「……本多…」
 宇都宮でその背に銃弾を受けた際も、本多は一度として泣きごとは言わなかった。痛いという言葉を聞いたことはない。しかも自分の体が五体満足に動かぬときに、本多は微笑んで大鳥の心配をする。さすがにあの微笑みは堪えた。 もしも総督という立場でなかったならば、本多の体を抱きしめて大鳥は声をあげて泣き喚いていたと思う。
 それを覚悟が足りぬと人は言うかもしれない。この場が戦場である以上は確かに死の覚悟は必要だ。明日は我が身が、仲間たちが屍になるかもしれない。そんな緊張の中で敵も味方も戦っている。命が大事か。大義が大事か。それとも信念か。大鳥にはいまいち分からない。だがひとつだけ確かなのは、
「本多、死なないでくれよ」
 上着を身につけ一礼をして部屋を出ようとした本多の背中に、ポツリと大鳥は呟いた。
「俺はおまえの躯は見たくない」
 本多は答えはせずにそのまま去った。
 それを見てホッと吐息を漏らし、その場にごろりと横になる。
「少しはましになったな」

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 半年前ならば振り返って「あなたを守れる楯になれれば本望です」などと答えただろう。それに比較すれば、わずかに肩をピクリと動かし無言をもって答えにするなど成長したものだ。
「うん。やっぱり何度も言い続けるというのは大事だな」
 命の大事さを声にして説き続けるというのは効果があるらしい。少しだけ気分が上昇した大鳥は、その場でゴロゴロと寝返りを何度も打っていると、疲労著しい体はついに限界を超えたらしく、もう動きたくはないと訴えていた。
(なんだか眠いや……)
 明日の指図は衝鋒隊の古屋と額兵隊の星にしてある。少しだけと目を閉じるとすぐに大鳥は眠りの中に誘われた。おそらく本多が戻ったら起こしてくれるだろう。だから少しだけ……。

 部下を五稜郭の伝令として立て、その報告に戻った本多は陣屋で一人すやすやと眠る大鳥を見て、ひとつため息を落としたが、音を立てずに自らの上着を脱ぎ、それを大鳥の体にかぶせて近くに座した。
 大鳥はここ数日、満足に眠っていない。ならば眠れる時に少しでも熟睡してほしい。
 周囲は静かだった。人の気配もない。シーンとした静寂にどこからか梟の鳴き声が聞こえる。
「……」
 あとどれほど自分は大鳥の傍で戦うことができようか。
 この腕が満足に動いて刀を奮うことができるのはあと幾日か。
 本多は怖かった。大鳥の傍で戦えず、いざという場合に大鳥を守れないそのことが怖くてならず、今は不安を表情に乗せて大鳥の寝顔を見つめる。

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 翌朝は晴天となった。
 数日か振りに熟睡をした大鳥は目を開けると、横でうたた寝をしている本多を見て「しまった」と思った。
 本多が戻れば当然叩き起こしてくれると思ったが、あては外れた。しかも本多に寝ずの番までさせることになり自分のうかつさに腹も立つ。
(おまえもここ数日……満足に眠っていないだろうに)
 気配に敏な本多が目を覚まさないところを見ると相当に疲労していることが分かった。
 大鳥は忍び足で陣を出て、外で待機している見張りの兵を手招きする。
「おはようございます」
 大きな声での挨拶は普段ならば頼もしいが、今は「しーっ」と口に人差し指を立てて声を抑えるように伝え、その男に小さな声で大鳥は命じた。
「会津遊撃隊の頭取か差図役を呼んできてくれないかい」
 にこにこと笑って頼むと、その男は訳も聞かずにすぐに動いた。
 大きくひとつ息を吐いて、晴天の空を見上げる。
 さて本当に困ったことになりそうだ。
 箱館病院に護送された諏訪常吉は、とんでもない置き土産を矢不来に残してきたようである。


「よし、これでいい」
 東京にいる伊藤俊輔宛てに書状をしたためた山田市之允は、隣で饅頭を頬張っている品川弥二郎に書状を差し出した。

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「なに……。松前にて兎を発見。捕獲しようとしたが失敗。甚だ遺憾。兎は箱館に向かった様子。市さん、これなんなんだね」
「伊藤さんに向けた書状。途中どんな人間にみられるか知れないから暗号にしたんだ」
「……あの伊藤が分かるといいがな」
「これ、分かりにくいか」
「たんに市が兎と戯れている絵図が弥二には浮かぶ」
 その言葉に山田は憤慨した。
「戦場だぞ。まさか僕が兎を本気で捕獲しようなんて……」
「伊藤なら思うかもしれん」
 そこでふんと鼻を鳴らし、品川から書状を奪い取った山田は、さてどこを修正したら良いのかと考えに考え、結局はこのまま差し出すことに決めた。
「きっと伊藤さんの傍には井上さんもいると思う。井上さんなら分かってくれるはず」
「さてさて。あの狸が手紙の裏を読み解く芸当をするだろうか」
「やぁぁぁじぃぃぃぃ。どうしておまえはそういつもいつも悲観的なことを」
「あの伊藤や井上さんのようには弥二は楽観的には考えはしないだけだ」
 松下村塾で机を並べて学んだ二人は、いささか剣呑な目で睨み合いをはじめた。
 そこにだ。
「やまださぁぁぁぁぁ」
 なんとも間の抜けた声が響き渡る。
「山田さぁ。少し話がある。矢不来からの部下の報せでおもして手紙をもって……」

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 薩摩の参謀黒田了介がその偉丈夫な体を覗かせると、
「うるさい」
 山田は半ば八つ当たりで勢いあまって黒田に向けて書状を投げつけてしまった。
「……どげんしもしたか」
 山田の八つ当たりなど慣れに慣れ、足蹴だろうが鉄槌、物投げでも可愛いと思えるようになった超楽観男の黒田は、
「むぞか」
 などと言うものだから、山田の怒りに油を注いだ。
「このおぉぉ黒田! もとはと言えばすべておまえが悪い! なにもかも悪い」
「そげな殺生な」
「なにが殺生だ。僕は一度も殺生はしていない。なにせ黒田になにしても殺生にならん」
 無茶苦茶な話だが、この八つ当たりも征討軍の参謀であるこの二人の親睦であったりする。
 あまりの言いざまに多少はいじけた黒田はその場に座りこんで、ぶつくさ文句を言い始める。そこに下に落ちた書状が目に入り、何気に手に取るとひらりと中が開いた。
「うさぎ? 捕獲失敗? 山田さぁ。兎の肉がすっなとですか」
 手紙を内面だけで判断するとそういうことになる。
「わざわざ東京の伊藤さぁに報せるほど兎がすっ(好き)なら、おいがぁ、こいかあ山にいっていっちょ捕獲してくるで」
「阿呆が。この戦においてなにが兎だ」
「書状に兎の捕獲失敗を遺憾ちゅうほど嘆いているじゃねですか」
「そ……それは」

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「分かりもした。こん黒田。暇な時に山に入っちょっ、たんと山田さぁに兎を取ってきもそう」
 そこでエヘンと胸を張る黒田を見て、右手をギュっと握った山田は、拳をふるふると震わせた。
「山田さぁも兎が好きとはな。あん大鳥さぁも兎肉はよぉ食べておりもした」
 そこで「大鳥さあぁぁ」と泣くものだから、うざったらしいと先ほどの怒りを込めて山田は一発黒田の腹に食らわした。
「市。そこの黒田さんの反応が普通だと弥二は思うぞ」
 饅頭を頬張りつつ品川がのほほんと言う。
 それをキッと睨みつけて、
「んで、黒田よ」
 多少の落ち着きを取り戻し、ついでに書状を懐に入れた山田はドスッと胡坐をかいて黒田の前に座る。
「矢不来でなにが起きたんだ。面白い手紙の話しを聞く」


 それからしばらく後。東京の桜田門近くに位置する長州藩上屋敷において、伊藤俊輔が蝦夷地より送られてきたその書状を受け取ったときの反応はと言えば、
「なんじゃあぁぁこれは」
 である。
 ちょうど横で小判を磨いていた井上聞多はその叫び声に驚き、小判を落としそうになり慌てた。
「なんじゃい俊輔。驚くじゃないか」
「叫びたくもなるよ。蝦夷地の市からこんな書状が届いたんだから」

逝く者、いくもの 24-11

 ひょいと放り投げるようにして伊藤は書状を井上に渡した。
「市は蝦夷地で元気にやっているのか。なになに。兎? あぁ兎の肉は珍味だな。俺様も好きだ。その捕獲に失敗したのか。それは残念だったな」
「こんなもの送ってくるな、と叫びたいよ。なにこれ。戦の緊張感皆無? 市は蝦夷地の戦をなんだと考えているんだ。これではまるで遠足だよ」
 大きくため息をついてその場にぐったりとなった伊藤は、
「こちらは木戸さんの消息が知れなくて、毎日毎日食事ものどを通らないのに兎って……」
「市もおまえを慰めようと思ったんじゃないのか」
「こんなの慰めになる? ねぇどこが慰め?」
 もともと兎の肉なんか欲しくないよ。昔、山に入ってそれはたんと捕獲しては売り歩いた記憶は思い出したくない、と本気で伊藤は思った。
 八つ当たりの意味でこの書状を足で何度も踏みつけて後に、はあぁぁ~と伊藤は大きくため息をついた。
「木戸さん。どこにいっちゃたのかな」
 途端に頼りなげな声で呟くものだから、立ち上がった井上が相棒の肩をバシバシと叩く。
「桂さんは大丈夫だ」
 もう何度同じ言葉を井上は口にしたか知れない。そう井上もこの言葉を自分に言い聞かせていないと心配でならなかった。
 どこにいるというのだ。思い当たる場所をしらみつぶしに当たったが全く音沙汰がない。
「伊藤。井上さん」
 越後口の戦争より戻った山縣は現在は待機中の身だ。すでに

逝く者、いくもの 24-12

西欧への軍事視察が決まっており、夏にも渡欧する。それまでの間、暇があるということで彼が率いる奇兵隊ともども「木戸捜索隊」として駆けまわっていた。
「山田から書状が届いたと聞いたが」
 あいも変わらず無表情で感情が知れぬ男である。
「あぁ市の書状ね。今、腹いせに踏みつけてしまってぐちゃぐちゃだけど」
 読んでよ、と伊藤は書状を山縣に手渡した。
「なんというか腹立たしい手紙だよ。なにが兎だ。市は僕の苦労なんか全然分かってない」
 そうだよね、と伊藤は同意を求めるかのように山縣を見たが、その時、不思議な光景を見た。
「えっ?」
 山縣が笑った。わずかだが口元に笑みを乗せ、その書状を伊藤に突きつける。悪寒が走った伊藤はおずおずと書状を受け取ったが、山縣も笑うことがあるんだな、と心底より驚いていた。
「木戸さんが見つかったようだな」
 はぁ? 山縣の言葉に伊藤も井上も目を点にした。
「山田の書状に書いてある」
「なにいってんの山縣。市は兎について書いてきただけだよ」
 確かめる意味でもう一度書状を見たが、やはり兎について述べられているのみだ。
「おいおい山縣。どこをどう読めば桂さんのことになるんだ」
 ちょいと首を傾げた井上を見て、山縣はその無表情に冷ややかなものを加えた。
「人に見られることを恐れ山田はあえて暗号で記したのだろう。兎は木戸さんを意味している」

逝く者、いくもの 24-13

「なんでぇ」
 伊藤は再び穴があくほどジッと書状を見た。
「随分前に号で月兎と使っていた。まして桂とは月の都を意味する。……松前に木戸さんがおり捕獲に失敗。木戸さんは箱館に向かったと読むことができる」
「おう。おまえさん凄いな。市の考えが手に取るように分かっている。俺たちにはとんでもないことだ」
 この書状が木戸の状況を報せているなど何百回読んでも井上も伊藤も分からなかっただろう。十人中ほぼ十人が兎と戯れている山田の状況を浮かべるに違いない。だが山田の天敵に等しい山縣は、 嫌と言うほどに山田の性格を熟知し、ついでに思考まで分かり過ぎている。
(仲が悪すぎて相手のことが分かり過ぎるのってなんか微妙)
 だが今はとてもありがたいと感謝する。
「……魔がさしたな」
 ポツリと井上は言った。
「よりによって蝦夷って。あの人、何を考えているんだ」
 叫びつつも伊藤はその答えを知っている。あえて最期の戦となる地にいった。視察など生ぬるいことをするために政府参与が身をくらますはずがない。
「……木戸さん。どうして」
「緊張の糸がぷつりと切れたんだろう。だが市が見つけたというのはせめてもの救いだ。なんとかせんとならん。いや万が一やら最悪なことも考えないとならんぞ。困ったな。箱館なんかにいって桂さんは平気なのか。正体を悟られていないだろうな」
「うわあぁぁぁぁ」
 思わず伊藤は叫んだ。

逝く者、いくもの 24-14

「人質になる人じゃない。そんな辱めを受けるくらいなら……木戸さん。どこか貞淑な少女のようなところがある人だし」
「俺が迎えにいこう」
 伊藤より書状を奪い取って山縣は立ち上がった。
「西郷が薩摩兵を連れて蝦夷に乗り込むという話を耳にした。すでに鹿児島を発ったらしい。山田ゆえに西郷が到着する前に終わらすだろうが、俺は西郷にかこつけて青森まで行く」
 そこで井上は財布をポイッと山縣に投げた。
「けっこう入っている。持って行け」
 その巾着はズシリと重い。
「待って僕のも……」
「よせよせ。俊輔の巾着に金が入っていた試しがあるか。奇兵隊の口が硬い奴らだけで頼むぞ」
 それには軽く手をあげて山縣は去った。木戸探索隊に使っていた十人ほどの精鋭を連れて横浜より異国の商船に乗り込み、とりあえず青森まで向かう手筈をつけた。
 奇兵隊の幹部である鳥尾小弥太と三浦梧楼は木戸の親衛隊を自称するほどの木戸の新派だ。また三好軍太郎は薩長同盟の際に木戸の同行の一人であり縁が深い。その他の連中も口が硬く木戸に縁が深いものを選んだ。
「ガタ。木戸さんが間違いなく海の向こうにいるのですね」
 三浦は短銃片手に山縣の横に並んだ。
「山田からの報せだ。まず間違いない」
「木戸さんに何かあれば俺は箱館の連中らを許さん。箱館に向かうのだ。市に加勢し敵を斬る」
 無表情のまま物騒なことを平然と言う鳥尾を見て、普段ならばひとつくらいは諌めるのだが、今はその意気をかう。

逝く者、いくもの 24-14

「片野と軍太郎は少なからず半信半疑のようだが、青森行きは了承した。軍服は置いていけ。万が一の場合、商人に混じって箱館に上陸しないとならん」
 山縣は遠い遠い海の先を見据えた。
 よりによって一番に最悪な結果がもたらされたが、どこかで「やはりか」という思いがある。あの木戸が姿をくらますほどの魔がさしたとするならば、それは生死にかかわることでしかありえないだろう。
『生きて、いきて。桂さん、いきるんじゃ』
 山縣は承知している。あの高杉の言葉がある以上は、木戸は自らの手で命を奪いはしない。だが自殺が許されないならば、その命の終わらせ方として選択できるのは、それは「戦場」でしかない。
(それが望みと言うならば……)
 長州の首魁でないのならばそれも良かろう。だが木戸は「桂小五郎」であり「長州の首魁」だ。維新の大業が終わろうとも、その身にはなにひとつ自由は許されない。その命ですら勝手にはならぬ。
「迎えに行こう」
 そして一発や二発は殴って、政府に連れ戻す。
 山縣の脳裏に木戸の死は一切なかった。あの人は生きている。確実に生きて……今、同じようにこの青き空を蝦夷のどこかで見ているような気がした。
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逝く者、いくもの 24-15

逝く者、いくもの 24章